文化的娯楽のはなし
このまえともだちのブログを読んでウォーと思ったので紹介します
映画と小説と音楽はわたしたちのごく身近にある娯楽で、それらの違いを考察したエントリです。
映画や音楽は受動的に受けとるもので、小説は主体的に読み進めなければならない(自分でページをめくる必要がある) 音楽は何度も聴くことによってどんどん主体的な受けとり方になる なるほどな〜〜 !
そういう文化的な娯楽にアクセスするための実際的なハードルというか距離は だんだん低く 短くなっていると思うし、わたしは映画も音楽も小説もとっても大好きなのですが、本を読んだり文章を書くのが心理的にすごく億劫になったりするときがあって それってもしかして その ページを自分でめくる主体性 みたいなものを絞り出すだけの元気がないのかもな と思ったりしました。情緒回復の魔法!いっぱい本を読みたい!余裕をもった新生活を送りましょう
あとは 音楽の 受動・能動(主体性)の話で思い出したことがありました。
このポスターのキャッチフレーズ ほんとうに映画を最後まで観たのかよという感じでぜんぜん好きじゃないのですが まあそういうことです
グザヴィエ・ドランが2014年に発表した 『Mommy』という映画にめちゃくちゃ最高のシーンがあって、それがこれなんですけど(話の筋がわからなくてもなかば震えてしまうと思います ぜひみてください)
全編 画面のアスペクト比が正方形で 閉塞感のあるつくりになっているこの映画で たった2回だけそのアスペクト比が崩れるシーンがあり、そのうちのひとつがこのシーンです。この場面ではOasisの"wonderwall"がほとんどフルで流れるのですが、それについてグザヴィエ・ドラン本人がトロント映画祭で観客からの質問に答えています。
(なぜ曲をフルで使うのかという質問に対して)
「Oasisの"wonderwall"はそもそもめちゃくちゃ良い曲なわけだから、思い出がない人っていないと思ったんだ。それが、初恋の人とキスした瞬間でも、自分の部屋でベッドでひとりでヘッドフォンして爆音で聴いていた、でもいんだけど、この曲は、人の心に深く何かしらの思い出を残す曲だ。少なくとも僕にとってはそういう曲だった。それで、僕にとって、音楽が流れる瞬間というのは、映画の中で唯一、観客が映画に自ら参加できる瞬間なんだ。
映画というのは基本的には、僕が描きたいことが発信されているわけで、観客は受動的だ。だけど、音楽が流れた時だけは、観客がその曲を聴いた時に蘇る思い出とそのシーンを重ねて、能動的な体験をすることができるんだ。だから、僕にとって音楽は大事だし、特別なんだ」
ドランは、観客が受動的にうけとるコンテンツであるところの映画のなかで 観客であるわたしたちをむりやり 主体 にひきずりこもうとしている。そしてまんまと 輪郭のあやふやな でも胸を引き裂かれそうな 現実・気まずさ・はがゆさ・祝福・その他すべてのわたしたちを芯からゆさぶるものたち をまざまざと見せつけられてしまう。
わたしがドランの映画を観ていつもどうしても持ってしまう感想が「完全にわたしのための映画だった…」というもので、これはまた詳しく書きたいんですけど ドランの映画に限らず 文化的娯楽がときどきみせる そういう一種の暴力性みたいなもののことを、わたしはすごく好きだなぁ… と思いました
グザヴィエ・ドランのインタビューについてはこの記事を参考にしました
https://www.google.co.jp/amp/ro69.jp/blog/nakamura/122687.amp
追記: 伊坂幸太郎だか誰かが「小説や映画はネタバレを嫌がるのに音楽のライブは知ってる曲が演奏されると嬉しい」みたいなことを言っていた気がする 出典が全然わからないけども それもたしかに…!!というかんじですよね、 曲を自分のなかに取り込んで主体的にうけとるものに変換できたからこそ というか そこまでしっかり音楽を聴く層しか実際ライブやコンサートに行かないだろうな という感じもします。
新学期いかがお過ごしですか!!わたしはねむい!!!!!!