移動祝祭日

勘弁してくれ.com

8月14日

 

  みんなが終電で帰ってしまうというので見送りをしてから、家に入りづらくて、自分の家なのに可笑しい、と思いながら、ポケットに入れてあった煙草に火をつけて、立ったり座ったり、携帯電話を眺めたりやめたりしながらとにかく一本を灰にした。

        もう一本と思ったけれど、今度はなんだか大丈夫な気がしたので、オートロックを解除する。わたしと一緒におおきな平べったい蜘蛛がぞろぞろぞろ、と這入ってきて、お前には関係ないだろ、と思って、そうしているうちに家に帰る気持ちが出てきて、階段をのぼった。

        ここまできてしまえば、涼しい部屋が恋しいばかりだ。とうとう家に帰ってきて、玄関の靴箱の姿見に映る自分をみて、無様だな、いや、そこまででもない、と思った。一応笑ってみて、さっきまで間違いなく楽しかった、という言葉が浮かんだので、そう声に出した。

 

  彼らが残していったものものを眺める。幾つかの洗い物と、自分では絶対選ばないだろう炭酸飲料と、21歳のお祝いの、21個のプレゼント。漫画の本をもらったので、また煙草を吸いながら読む。

        これをくれた人がときどき貸してくれる本の匂いが好きだ。それがどんな匂いだったか不思議なことに全然思い出せないのだけど、とにかく、家の匂いがするのだ。

        特定の家というよりは「家」という字面そのものが持つ匂いがする。他人の家の匂い、しわくちゃの茶色の、たまにみどりがかった甘ったるい青の、薄いセロファンの、そんな匂い。

        だからその人がくれた本に煙草の匂いがつくのは残念だ。わたしの煙草は自分を傷つけるために仕方なく所持しているもので、だけど母だけは、自分と同じように娘が煙草を吸うようになるのはちょっと嬉しい、と言う。いつかわたしも自分の匂いの家をもつのかな。

 

  その漫画は団地に住む人々の物語で、いいな、と思うものもあれば、そうかな、と思うものもあった。そうかな、というのは、それって本当にいい話なのかな、ということで、だけどいろんな人が住む場所の物語なので、これでいいのだと思う。

  好きなものを好きな理由をきちんと言える少女や、小さなきっかけで好転するさまざま、突然見開きいっぱいに現れる高架の太い柱に涙ぐみながら最後まで読んで、泣きたかったので少し泣いた。

 

  ソファに右耳を強く押しあてて寝転んで、いろんなことを考える。

  言わなくてよかったことや言ってよかったこと、聞きたくなかったことや聞けてよかったこと、言えなかったことや聞けなかったこと、これからのことと今までのこと、さみしくてさみしくてさみしいこととか、だけどどうしても曲げられない自分のこと、見送るのと自分が帰るのどっちがいいのかということ。

  どれだけ先延ばしにしても別れは必ず来るので、それなら自分でコントロールできるうちに別れてしまいたい。

        だから今日は自分が帰りたかった。できれば誰にも何も言わず、いつの間にか。そういえば別れの時の涙の内訳ってなんなのだろう。取り返しのつかないものに対する恐怖みたいなものがある気がする。わからないけど。

 

  考えていることや呼吸のリズムに合わせて聞こえる鼓動の早さが変わる。めちゃくちゃ生きてるなあ。

  だけどまあとにかく、どうやら概ねうまく喋れるようにはなってきており、それはよいこととは限らないにしても、悪いばかりではない、はずだ。というのを結論にして、寝よう。

        あの団地の一軒一軒に並ぶ本の匂いをかげるような夢がいいなあ、ぜんぶの家の孫になりたい。