移動祝祭日

勘弁してくれ.com

結果として

  終電を逃している。そんなはずではなかった。なぜなら明日はライブに出てベースを弾かなきゃならない。だけど逃した。だから帰れるところまで電車に乗って、歓楽街のサイゼリヤで、これを書いている。たぶん深夜ならではの、脈絡はないくせに妙に感傷的な、こっぱずかしい文章になるんだろう。

        元来、暇を持て余したり、時間を潰すことが好きだし得意だと思う。待ち合わせの遅刻だって自分がするよりされる方がいいし、長距離移動も大好きだ。ただし、わたしは暇な時間のやり過ごし方を、大体3種類しか持たない。文章を読むか、書くか、寝るか。そういうわけで、書いている。

 

  夏と大人について

  夏になると「暑いのはみんな一緒」「しんどいのはみんな一緒」という言葉を思い出す。わたしが小学生の頃はまだ運動会が9月に催されていて、暑いなか校庭や体育館でダンスの練習をさせられていた。みんながダレてくると先生が馬鹿の一つ覚えみたいに決まって口にするのが、冒頭の台詞だ。

  「だから何だというのだろう?みんな暑いからなに?みんなしんどいからどうしたの?」というのが当時からわたしが抱いていた感想で、つまり、ブチギレていたのである。わたしだけじゃなく、みんなが暑いと思っているならなおさら、みんなが快適になるようにすればいいじゃないか。みんながしんどいならなおさら、休憩した方が良くない?解決法がはっきりしてるのに、合理的な理由が何もないのに、全員で暑くてしんどい思いをする意味がわからない。

  「可愛げがない」というのは、それはもう本当にそうで、もしかして履歴書に書いといた方がいい?というくらい人から言われてきたし自分でも思っていることなのでこの際いいんだけれど、でも21歳になっても思い続けているんだから、これはもうわたしの「思想」ということになりませんでしょうか。「みんなで幸せになりたい」という思想。「少なくともわたしはわたしを幸せにしたい」という思想。

  大人になるのは怖い。怖かったし、今も怖いけれど、大人に近づくにつれてそういう時に自分の責任で「ヤンピ」できるというのは、最高に素敵なところだと思う。わたしは高校3年生の運動会の練習にも本番にも出なかったし(正しくは出られなかった)、今でもそれでよかったと思っている。

 

  文学ってすごい、という話

  文学ってすごい。現代文や小説や評論ではなくて、文学ってすごい。ここでの文学というのは「文学研究」という意味なのだけど、このすごさを感じられただけで、大学前期の授業料分あるんじゃないかと思う。

  前期に白樺派の思想についての講義を受けて、文字通り100年前の、西洋から様々な文化や思想が入ってきた頃の青年について学んだ。中でも武者小路実篤は「個人」すらなかった日本の社会に「個性」という思想を輸入して確立させた人だ。

  彼らが一生をかけて考えて考えて考えたことを、またまた長い時間をかけて研究者がまとめて、その成果を15回22時間の授業で受け取ることができる。なんということでしょう!

        過去を生きた人の思想を学ぶことは、時給のいいアルバイトをするのと同じで、人生によい。時給1800円のアルバイトをすれば働く時間が半分でいいように、彼らの思想に触れ、取捨選択し、それを基に考えることで、それを踏まえた新しいことを考えることができる。もっとも、思想に「新しい」もクソもねえよ、という感じもするし、文学に限った話ではないのだけど。

 

  もうひとつは「文学としての読書」について。本を読むことは大好きだけど現代文ってキライ、という学生だったわたしにとって、文学研究は不安な分野だった。とにかく自分が「文学」として物語を読むことに向いているのかを確かめる必要があった。

  結果から言うと、めちゃくちゃ面白かった。「文学としての読書」とはつまり「解釈すること」だ。ただし、逞しい想像力と明確な根拠を持って。 

  「読んで何思うかとか人それぞれやろがい」とか、「なんでこの答えがアカンのか訳がわからん」とか「作者がほんまにこのときそう思っとったっちゅう証拠はあるんか?お?」という、現代文に抱いていた最悪なイメージ及び不安は払拭された。

  まず、解釈において主役は「読み手」だ。作者がどう思っていたかは基本的には関係ない。文章の一番の理解者は作者ではなく読み手だとされている。

  読んで何を思うかはひとそれぞれ、これは本当にそうで、文学の解釈はそこから始まる。ありったけの想像力をつぎ込んで物語を読んで、ひっかかりを見つける。だからそもそも物語を物語として受け取れない・娯楽としての読書を楽しめない者に解釈はできない。そのひっかかりを基にして解釈を広げていくのだけど、ここでめちゃくちゃ重要なのが、明確な根拠だ。

  根拠がなければ、それは「感想」でしかない。これとこれを基にこう考える、それがあっちとつながるんじゃないか?あった、これを根拠にできる!!という作業の積み重ねが解釈だ。

  先生が提示する論のそれぞれに確固たる根拠があるし、自分の論もバシバシ突っ込まれる。ふにゃふにゃの屁理屈で懐柔されているようで嫌いだった現代文だけど、文学の解釈には確固たる筋が通っている。わたしは半年かけて夏目漱石の「三四郎」を読んで、16,000字の最終レポートを書いた。ほんとうに骨の折れる作業だったけれど、出来上がった解釈はわたしだけの解釈、わたしだけの読み方だった。

  長くなってしまったけれど、つまり文学研究及び解釈は、世界を拡げる作業なのだ。何かわからなかったことを明らかにして、それが直接人の役に立つ学問ではない。だけど「この時代を生きたたった一人のわたしがこういう風に読んだ」というのはこの現実世界や作品世界の捉え方や奥行きを増やす作業だと思う。

  文学、めちゃくちゃ面白いです!

 

  

  インプットとアウトプットの話。大人と話した記録。

  「もちろんこれは私の持論なんだけど、自分っていうのは相対的な存在だから、表現してその評価を得ることでしか自分の存在を定義できない、輪郭をはっきりさせることはできない」という話を聞いた。「自分はこういうことを考えてこういう表現をしてきた、という積み重ねと一貫性が信用になる、だからアウトプットが大事なんだ」「日本にぼんやりした人間が多いのはモノを作らないからだ」とも。その人は確かにその持論通りに行動して結果も出している人で、だからその言葉にはとても説得力があった。

  ただし、わたしは、人にはぼんやりする権利があると思う。ぼんやりした、外から見れば陳腐かもしれないその日常を、それでも大切にする権利はある。そして、その選択を断罪したり、あまつさえ嗤う権利は、我々にはない。

 

  「自分に文章を書く才能があるんじゃないかって、文系が一番陥りやすいんだよね、文章ってみんな読んだことあるし、日本語だし、ある程度書く練習は学校でさせられているし。ただ、もしそうなんだとしたら、やっぱりアウトプットが重要なんだよ、音楽家って年に100曲も200曲も作るでしょう、それは内から湧き上がってくるから。訓練したら誰にでも書ける文章じゃなくて、本当にその道のアーティストとしての自分が存在して自分の文章を持ってるなら、書いて書いて書いてるはずだし、そうしなきゃいけない。そうじゃないならただ『うっとり』を撫でまわしてるだけ、勿体なさすぎる」

 

  これはめちゃくちゃ効く言葉だった。もちろん、さっき書いたように「『うっとり』を撫でまわす」権利は誰にだってある。だけどわたしはそれだけでは嫌だ。

  わたしは「あなたの強みと弱みは?」と訊かれたら、迷わず「感受性が強いところ」だと答えるだろう。率直に言うと、わたしには人よりもより多くのことを、多くの方法で受け取る能力があると思う。映画を観ても本を読んでも音楽を聴いても、道を歩いていても買い物をしていてもバスに乗っていても、容易に感動や喜びや怒りや、その他いろいろなことを感じ取ってしまうし、すごい作品に触れると文字通り寝込んでしまう。これは性質の話で、その代わり、大きな物音とか強い光とか、機嫌の悪い人の近くにいないといけない場面とか、変な天気にとっても弱い。(こういう性質をHSPというらしい)

  何が言いたいかというと「わたしはマジで何も成し遂げていない!!!」ということで、わたしは自分の強みを「受け取ること」だと思っていたし、受け取ったことを言語化するのだって、少なくとも致命的に下手くそではないと思ってきた。

  だけど「自分の使命は『受け取ること』だ」と思って、今まで無視されてきた無名の人々による工芸品の美しさを受け取って、さらにスポットを当てて「民芸」を確立した柳宗悦だって、ちゃんとその受け取ったものをアウトプットしていたからエライわけで、外から見ればわたしは何も成し遂げていない、ただのお客さんで消費者でしかない。

  それは全然悪いことではないし、しつこいようだけどそもそも良いとか悪いとかを決める権利もわたしにはない。だけど今のわたしは、割と明確に、お客さんだけでは嫌だという気持ちを持っている。

        少なくとも自分にとってよい文章を書きたいと思っているし、人にそれを読んでもらいたいと思っている。書いて、良いにしても悪いにしても評価をもらいたいと思っている。つまり、このままじゃダメなんじゃないかということ。

  ただし、わたしは『うっとり』を撫でまわすのも大好きだ。これは忘れてはいけないことだと思う。評価を求めるあまり書きたくもないテーマで思ってもいないことを書くなんて御免だ。アフィリエイトブログとかコンテンツ切り売りなんてぞっとする。「ブロガー」になりたいわけじゃない。小説家やコラムニストになりたいわけでもない。(文筆家にはちょっとなりたいし翻訳家にはかなりなりたい。)

  『うっとり』の延長線上で何かをどうにかしたいし、どうやら簡単ではないけれどわたしさえやろうと思えばできそうだ。この辺の視界をクリアにしてくれる人の存在は本当に、本当の本当に大きい。

 

 

 

  もっともっと書きたいことはたくさん浮かんでいたんだけど、もうすぐ始発が出る頃なので、おしまいにします。帰ってお風呂はいって仮眠して練習したら久しぶりに人前で演奏する、とってもいいバンドを組んでいると思うので楽しみ。