移動祝祭日

勘弁してくれ.com

東京にいく

        突然ですが、東京に行ってきます。いまは新幹線の中です。日帰りなんですけどね。ワハ   お手伝いしているバンドの東京でのライブに出演することをめちゃくちゃお願いされて、めちゃくちゃ断ったんですけど、新幹線代を出すと言われて、あなたが出てくれればすべて丸く収まると言われて、渡航1週間前をきっているのに、行ってきます。おひとよし!

 

        東京に行くのは去年の10月にGalileo Galileiの活動休止ライブを観に行って以来なんですが、あれはめちゃくちゃ楽しかったな、平日で普通に大学があったんですけれど、知ったことか!ガリレオの活動休止より大ごとがあるか!と思ってチケットを取って、友達とは現地集合だったのでひとりで飛行機に乗って行ったのでした。そのまま安いホテルに泊まって翌日はベタな観光をして  大学生の自由を噛み締めたな〜〜  いい催しでした。

        東京ってやっぱり言葉自体に強い力があって、ステイチューンのパーリナイも東京だから絵になるけどそれが大阪や名古屋だったら全然お話にならないし、東京にしかないものってたくさんあるように感じるし、だからいっかい東京に住んでみたいな、1年くらい。それで挫折するならするで、とりあえずいっかいやってみたい。モラトリアム延長の券はどこで買えるんでしょうか。

 

        今回は新幹線で移動しているわけですが、これがなぜだかめちゃくちゃ緊張してしまって、だけど乗ってみたら呆気なくて、チケットを取るのも飛行機よりもよっぽど簡単で  なんだか不思議な感じがしています。たぶん新幹線に乗ること自体が小学1年生以来とかで、家族と一緒の大旅行のイメージがあるからだと思う。そういうのをちょっとずつ更新していって新幹線もいずれほんとに大したことないってなるのかな、寂しい気がしてしまうけど大人ってそういうことなのかもしれない。飛行機はそもそも去年の夏に友人と2人ではちゃめちゃなトランジットをやりながらオーストラリアに行くやつをやってたのでお手の物だった。あのときは遺書を書くほどコチコチになって出発していたのですけどね。

        あとまた別の話ではあるのですが、わたしは新幹線の駅の外や空港の待合室のよそよそしい感じが大好き、特に早朝は最高です。みんなこの場から始まっていく  誰もここが終着点ではない感じ。普通の電車の駅とかだと出発前の余白みたいなものはほとんどないから やっぱりこの雰囲気は独特だよなあ、空港で働こうかな。空港で働こうかな というのは、いつも空港的雰囲気のところに来ると思い出すけどそれ以外のときはまるっきり忘れていることで、だからまあ空港的雰囲気はわたしにとってけっこう特別なものらしい。

 

       

        さてそうこうしているうちにいまは京都を通り過ぎて田んぼだらけのところを走っています。もうすぐ名古屋に着くって放送のお姉さんが言っている。東京に着いたら楽器を駅に預けて国立西洋美術館アルチンボルド展をみるつもり、だからめちゃくちゃ早起きしてめちゃくちゃ低血圧です。ヒィ   そのあとは上野でお昼ご飯を食べて下北沢の本屋さんに遊びに行こうと思っています。下北沢のライブハウスでライブするなんてバンドマンみたいでおもしろい。ライブが終わったら最終の新幹線で家に帰って 明日は明日でまた別のライブです。大統領かな???というスケジュールのハードさ!がんばります。 では!

 

 

退職

        退職しました。1年半勤めた個人指導塾だったんですけれど、だんだん授業以外のお給料の審査が厳しくなってきて結局ブラックと変わらないのでは、となってしまったり、あとはこの月末からロシアに1ヶ月留学に行って  帰ってきたあとは大学の近くに住もうと思っていることから、退職になりました。夏期講習が終わり次第という感じなんですが、受験生からしたら いまから受験本番というときに大迷惑な話ですね。まあ言うまでもなくわたしはわたしの生活が一番大事なのでどうしようもないことではあるんですけれど。

 

        それで、待遇面や社員の感じをみていると、わたしはけっこう長い間自分のアルバイト先のことを好きじゃなかったんですけど(なにしろLINEグループの名前が「スマイル王国」だったりする)、ではもっと早く辞めておけばよかったのか  時間の無駄だったのかというとあんまりそうでもなくて、それはアルバイト先で出会えた人たちとわたしを慕ってくれる生徒がいるからです。

        率直に言うと、待遇はけっこう悪かったと思う、仕事量は多いし そもそもの授業給は安いし  社員は甘ったればっかりだし。だけど今振り返って考えてみると、まあいいか、と思うのですよね。なぜなら職場の人たちと出会えたから。あの人に可愛がられて、あの人にいじられて、あの人とは一緒にライブに行ったりお酒を飲むような仲になった。この1年半を振り返って、職場の人たちなしの日常はあんまり考えられない。

 

        講習期間を除いて わたしが1年半で担当した生徒はたぶん12人いて、スッと志望校に合格していく子もいれば、最後の最後まで苦しんだ子もいる。基本的には 「落ちてもわたしのせいじゃないけど受かってもわたしのおかげじゃない、最終的に勉強するのは本人」 というスタンスで  言うことを言い、やることをやったあとはわりと軽い気持ちで彼らを見守っていたから、合格した子や卒業した子が持ってきてくれるお菓子の包みや手紙なんかにしっくりきていなかったのだけど、この2月から担当している高3の男の子は 途中で担当を外れることになってしまい、なんというか自分でもびっくりしてしまうほど心残りになっていた。

 

        それで、手紙を書いた。夏期講習は君が思っているよりかなりハードだったので、ひとまず自分を褒めて自信に思ってほしいということ、こんな時期に退職になって申し訳なく思っているということ、しっかり引き継ぎをしたので安心して欲しいこと、わたしは君のことをめちゃくちゃ応援していること、いつでも頼ってほしいということ。ほんとうはだめなんだけど、メールアドレスを添えた。別れの手紙を書いたのは初めてで、「では、お元気で」と終わる手紙を書いたのも初めてだった。

 

        そしたら、驚くことに、その日のうちにお返事がきた。

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わたしが大学でロシア語を勉強しているのを知って、わざわざ調べて ロシア語で「ありがとう」て書いてくれたのかな、3つの言語でこんなにカラフルに大々的に感謝を述べられたことも似顔絵をプレゼントされたことも初めてで、字の汚さも色塗りの雑さも めちゃくちゃ心に刺さってしまった。

全部大好きです。(愛の告白ではありません笑)本当ですよ!! 

と彼は書いてくれたけど、そんな そんなそんなそんな  そんなことがあっていいのだろうか、そんな人間だったのかな そんな講師だったのかな、すごいな、ここで働いて彼の助けに少しでもなれたなら本当によかったな。

 

        「では、お元気で」と書いたわたしに彼が返してくれたのは「また会う日まで  バイバーイ!!」というもので、わたしの1年半やお節介でお人好しな部分を 最後に全部まるっと肯定された気分になったのでした。 至極当たり前のことのようですが、人と出会うってすごいし 誰かの人生に痕跡を残せることってすごい。いい経験をさせてもらったし、あんまりドライに物事を見るのをやめて いろんなことに一生懸命になれそうな気がする。 職場では嫌な思いももちろんたくさんしたんだけど、やっぱりわたしは結果オーライの星の下に生まれてきているんだなあ などと思ったのでした。 ワハハ

 

        追伸: これだけ大仰な別れをしておいて お人好しなので辞めるって言い出せなくて 今日また違う生徒の小論文の添削に出勤します、嘲笑ってほしい。

 

 

煙草

 

        煙草が嫌いだ。公共の空間での喫煙者はテロリストめいているとすら思う。

 

        一番身近な喫煙者は母だ。わたしは彼女が家を出た後、自分の部屋を物置にして 彼女の部屋を寝床にしているのだが、その部屋の壁には不自然に黄ばんでいるところがちらほらあり、それはなぜかというと、彼女が四六時中 煙草を吸っていたせいだ。

        喘息をもっているわたしの目の前で煙草を無遠慮に何本も続けてふかす彼女のことを、いつも冷たい目で見つめていた。ちょっとしたトラウマなのかもしれない。このひとはわたしの体なんかよりも自分の方がよっぽど大事なんだなあ、などと思っていた記憶がある。そんな感傷的なことばかりじゃなくて、ただ単に匂いが不愉快で、煙を鼻に入れて その匂いを嗅いだそばから肺が汚れていくさまがありありと想像できてしまうのが嫌だった。

 

        この前 初めて煙草を吸った。お酒の席のことで、わたしはがばがば煙草を吸う先輩の横に座っており、楽しく酔っ払っていて気分が良かった。何かの拍子に煙草の話になって、「吸ってみる?」と言われて、だから吸った。吸ったんだけど、煙が喉に刺さって噎せてしまう。「やっぱりやめとこうか、ごめんね」と言われて、なんとなく意固地になって、もう一度試してみる。煙草には吸い方があるらしい。喉を閉じて口の中に煙を吸い込み、一拍おいて、鼻からの空気と一緒に肺までいれる。息を吐き出すと、何かが頭を回る感じがして、くらっとする。眼球が一瞬横にぶれる感じ。それが小刻みに何度かある。煙草をやめられない人はこれが癖になるのかな、とぼんやり思う。

        わたしが煙草をもっている姿をなんらかの画像でみた友達はかなり驚いていたし、父に告白したときはちょっと怒られた。これは余談なのだけど父は煙草は吸わなくてお酒にめっぽう強い。お酒には何も言わないのに煙草は怒るなんて少し変だ。でも気持ちはよくわかるというか、煙草までいくと「いよいよ一線を越えた」感がある。お酒よりも遥かに人生に必要のない、だけどなぜか認められている悪いこと。

 

        煙草を吸ってみてよかったと思っている。あれからじぶんで煙草を買ったり吸ったりはしていないし、受動喫煙は相変わらず嫌いだけれど、やっておいてよかったなあ、と思う。先輩に吸い方を教えてもらうというのも、なんとなくうっすら甘美な気がして、わたしが煙草を吸うならあのやり方しかなかっただろうと思う。なにより、煙草を吸う人々のことをエイリアンのように感じなくなった。なるほどな、と思うだけだ。

 

        煙草というのは、物語の小道具としてもとても優秀だ。感情や時間の流れ、性格を表すことにおいてあまりに優れている。深く息を吸い込んでうまそうに 1本が短くなるまで大切に吸う、火をつけてすぐにいらいらして灰皿にぐしゃぐしゃに押し付けてしまう、灰をこまめに落とすのかほったらかしておくのか。

        わたしが映画をがぶ飲みするみたいに観るようになったのは高校2年生ぐらいからで、とうぜん煙草も数え切れないほど登場していているけれど、自分が実際にやってみてからはやっぱりそれらに対する距離が縮まったと思う。呼吸を合わせることができる。口に煙をためて、鼻から吸い込んで一気に吐く。煙草を吸うのが上手い人は観ていて楽しい。

 

        20歳を迎えて、ひととおりの社会的な制限は解除されてしまった。お酒や煙草や選挙や競馬やパチンコ。それら全てに対して、距離を取るのも迎合するのも完全にわたしの自由であるという事実になかば震えてしまう。

        幼い頃は 「絶対に煙草なんか吸わない、お母さんみたいにならない」と思っていたはずなんだけど、ではこれから先 実際に癖として煙草を吸うことはないのかな、と考えると、全然言い切れない。わたしがあれから煙草を吸っていないのはただ単にライターの使い方がよくわからなくて触るのが怖いからだ。

        だけど今は、許されているけどやらない、いつでもできることがわかっているけどやらない、というひねくれた自由を謳歌することをけっこう楽しんでいる。

 

映画いろいろ

  Instagramに散文駄文を撒き散らしがちなのはもう会員登録したその瞬間からの悪癖なのだけれど、ブログを始めても治らないとは思っていなかった。特に映画の感想というか雑感もろもろ。なんというか、適当なことを書いても許される気がするのかな、ブログに書こうと思ったらけっこう肩肘を張ってしまうというか、「良い文章」を書きたくなってしまう。

  そもそも考察があんまり好きじゃない。もちろんそういう楽しみ方があるのは理解しているし、よい考察やそれに耐えうる強度を持った映画というのは美しいし魅力的だと思う。だけど、それはあくまで二次三次のもので  やっぱり一次的な感動とか感じ方ってめちゃくちゃ大事だと思っていて、だから、映画を観て、その後の放心状態のままとにかく文章を書き散らして、Instagramにぶん投げてしまうんだろうなと想像する。

  ところでわたしは誤解をめちゃくちゃ恐れる人間なので言葉を尽くしておきたいのだけれど、後から思い返して鳥肌が立つような映画の存在をわたしはよく知っているし、思考をきちんとわかりやすく整理して誰かに伝えたいと考えてエントリをしたこともある。二次的三次的に納得がいかない作品だったとしても  観ている最中や直後の感動は本物なんだよということが言いたくて、つまり、それとこれとは別  ということです。

 

  それで、ブログという媒体を用いた映画の感想とか考察って二次的三次的なものが多いように思うのですけど、わたしがブログに映画のことを書くときは一次的な感情をもとにして書きたいな、と思ったのでした。とりあえず最近の良かったやつのことを書きます。前置きが長い。!

 

ハートストーン

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  わたしは感情や状況の整理を言語で行うタイプなのですけどそういうのが全然できなかった エンドロールで訳がわからないまま 何も言語化できずに滲むように涙が出てきてちょっと新しい体験でした  彫刻みたいな北欧の男の子すごくよかったし映像に暗喩がたくさんあって詩的だった  残酷なように思えるけど なんというか  生まれ育ったところだけが世界ではない ということをわたしはもう知っているので 希望のある終わりだったと思う

 

アスファルト

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  ちょっとどころかけっこう妙ちきりんな世界線の話なんですけど、そういうところで普通に生活している普通の人たちの普通じゃない瞬間を集めたような映画でした だからこそリアリティがあるし、こういう瞬間のことを 宝物 とか  かけがえのない  とかいうのかな、と思った ああいう曇りの多い静かで乾燥したちょっと寒い土地に住みたい

 

x+y

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  「自閉症スペクトラムをもっている主人公が、ハンディキャップをもちながらも飛び抜けた才能によって周囲の鼻をあかしたり親孝行したりする物語」で終わっていないところがすごく良かった、これってめちゃくちゃ革命的で新しいのでは、と思いました  才能があるからってその道で生きていかなくてはならないわけではない、どういう風に生きるか、何を大切に思うかは自分で選んでいいし是非そうすべきだ、そうあるべきだ、という話 信頼関係というか、愛がなければ絶対に成り立たない物語だし、うっとりするシーンがたくさんあった エイサ・バタフィールドの目と泣くみたいに笑う母親 giftedの呪い  最後の5分が本当にめちゃくちゃいいです (邦題は「僕と世界の方程式」)

 

KILL YOUR DARLINGS

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『愛するものこそ葬り去れ』
これがビートジェネレーション……と思った これ実話なんですよね、震えてしまう デイン・デハーンラドクリフとの邂逅のシーンがめちゃくちゃいい ぜんぶ承知の上でゆるやかに破滅的、パリピとの違いはぜんぶ承知の上でというところなんですけど  自殺ごっこして生まれ変わったり 妙なドラッグをキメて文字通り走りながら執筆したりする

わたしもブルジョワでインテリで不機嫌な顔が似合う文学青年をやりたかった

 

グッバイ、サマー

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  すれた若者なのでロードムービーを観るのってけっこう勇気がいるんですけど観てよかった 儀式がたくさんあってすてきでした してもない腕時計の時間をふたりで合わせる、ベッドで寝ている母親の横にとびこんで「死ぬのが怖い」とだけこぼす、誰もきていない展覧会で人ごみを演じる

まさにいま目の前にいるひとりの心を軽くする正しい儀式を正しいやり方でおちゃめにやってのける人、いますよね  そうなりたいな しかしそれが機能不全な家庭に起因するならこれ以上に切ないことってない そういうのも合わせて いい映画だった  オドレイ・トゥトゥが母親役をやっててウォーとなりました

 

胸騒ぎの恋人

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  恋愛というか 片思いの気まずいところ しんどいところ  あとはなんていうか なんていったらいいのかなあ  あの べつになにも頑張ってないけどみんながその人に惹かれてしまう、自分の存在が最短距離で肯定される星のもとに生まれている、みんなが勝手にしたてに出てしまう、その他大勢が山ほどいる、そして奇跡的にド近眼  そういう人に恋する気持ちというか  まあこれは天使みたいな男に恋する男女の話なんですけど、結局 いい歳して無邪気なのは最悪で罪深くて暴力的という話にもなるんだろうけどそれだけではないよナァ という感じ 言葉にできない感じがぞわぞわして気持ちいいです まあでも いい歳して天使みたいな男 めちゃくちゃ嫌な奴じゃないですか? ハイ

ドランはこの映画で 恋に落ちる過程の検証を試みたらしいんですけど、やろうとしてやりきっているのをみせつけられるともはや勘弁してくれという気持ちにしかならない‬ これは自意識が過剰なのですけど、ドランの映画のこと 悉く わたしのための映画のように思ってしまう わたしは 所謂天使みたいな男と 所謂大親友になってしまいがちで とりあえずちゃんと正しく失恋しよう…と思いました ヒィ〜〜〜〜

 

 

とりあえずおしまいです、続きはまた今度

メモ及び暫定的回答

 

頭に浮かんだことを 正しい正しくないは置いておいてとりあえずブワーーーッと書いていこうと思います。全然気にしないでください。

 

◯優先座席について

        優先座席って不思議だ。わたしが優先座席に対して思うことは主に5つある。

①視座の話

詭弁なのは重々承知の上なのだけど 優先座席は「優先されるべき人」というのがある程度大勢に共有されていること・「自分が優先されるべき人間である」という自覚があること という条件が揃って初めて成り立つように思う。視座がかなり上の方にある感じがする。字面だけを見ているとくらくらしてくる。

②ないほうがいいのでは

これは高校入試の小論文で書いたことだけど、本来「困っている人」は電車やバスのどこにいても席を譲られるべきであり、優先座席なるものがあるせいで「ここは優先座席じゃないから大丈夫」というよくわからない油断が芽生えるのではないか。

③優先される人

優先座席と普通の席が空いている時、自分が「優先座席付近で優先されてしかるべきタイプの人間である」という自覚のある人はぜひ率先して優先座席に座ってほしい。若者をはじめとする一見健康で元気で困っていなさそうな人は優先座席に座っていると白い目で見られる。少なくとも本人の中で呵責がある。優先されてしかるべき感じの人が率先して優先座席に座ってくれれば気兼ねなく座れる場所が増える。双方向の思いやり。

④座っていい

先ほど白い目で見られるとか呵責がどうこうとか書いたけれど、「アッ今日優先されたい、された方がいい、しかるべき」という日は座ればいいと思う。見た目でわかりやすいしんどさばかりじゃないし自分が元気じゃないと人に優しくできない。それでも自分より困っている人を目の前にすると知らん顔は出来ないようにプログラムされているはず、教育は偉大だ。あとぎゅうぎゅうに混んでいるのに頑なに優先座席に座らない人はめちゃくちゃじゃま。

⑤言えば済む

座りたいならそう言ったら事足りるという仕組みになれば「譲ったのに嫌な思いした!」とかがなくなるのにな。そもそもおなじ運賃を払っている以上  譲る・譲らないは良心の話であって強制するものでもなければ当たり前に搾取していいものでもない。なんというか、言説のやり口がフェアじゃない。

 

◯どうしていいかわからないこと

路上パフォーマンスへの接し方。好意は表明した方がいいということはわかるけれどどうもスマートにできない。遠巻きに見るけれどそわそわしてしまう。

 

◯どうしたらいいかわかってきたこと

駅や街で困っている外国人への接し方。幸い英語は話せるんだしとりあえず声をかければよい。仲良くなろうとは思わなくていい。切符売り場で困っている人が多いのは「お金を先に入れてください」という表示がないから。代わりに買ってあげるのではなくちゃんと説明して自分で買わせると次回から困らないだろう。別れる時にひとことかけると気持ちがよい。

 

◯不思議に思うこと

①電車のアナウンスで「我孫子」だけめちゃくちゃ関西弁のイントネーションなこと。関西の地名なので関西弁が標準語になったのか。では他の地名は?英語バージョンは英語っぽくなっている。

②猫やライオンが唸るときに使う器官は機嫌がいいときにゴロゴロいうあの場所と同じなのか「ガオー」とは言っていない気がする。

 

◯確信していること

①階段では上る人より降りる人の方が強い。なぜなら視界が広いから。

②糸へんと言べんでは糸へんの方が偉い。

③sin はピンク色 cos は黄色 tanは水色と緑の間

④マナーとモラルとルールは全部別物。話すと長くなるしあんまりまとまっていない。

 

◯最近の変化

ミルク飲料がそんなに好きじゃなくなってきた。カフェ・オ・レとかミルクティとか。

 

◯変わらないこと

靴下をよくなくす。

 

 

 

ふりかえって10代に手を振る

        8月になりましたね。みなさんいかがお過ごしでしょうか。わたしはあと1教科 ウクライナ語の期末試験が残っているのでまだ夏休みではないのですけど、今日はお休みでした。アルバイトもなし! だからと言って何をするでもなく、勉強しようしようと思いながら動画をみたり、寝たり、なんというか、呆然と過ごしていました。

        最近好きな動画は We bare bears というアメリカの短いアニメで、全編英語なのですが案外何言ってるのかわかるし楽しい、ice bear のことが本当に大好き

www.youtube.com  もっと長いバージョンもあります

 

去年の夏は大山のぶ代さんバージョンのドラえもんにドはまりしたのちサンドウィッチマンのコント、トムとジェリー、インパルスのコント及び板倉さんの動画と、好きになったジャンルをすみからすみまで割とどんな手を使ってでも観尽くしているので侵略者のような気持ちになります

 

        今日は本当は、神戸の元町映画館というところでやっている トレインスポッティングの2作同時上映に行こうと思っていたのだけど、なんというか、決意が足りなかった、ウクライナ語の試験が3日にあるので勉強するなら今日か明日なんだけれど明日勉強するのは嫌で、昼から近くの喫茶店まで出かけて勉強しよう、それまではベースの練習をしよう、と、思っていたのだけど、思っていただけでした。

        13時から16時までの時間のすすみかたって異常に早くないですか、14時半くらいまでは「まだ大丈夫」感があるんだけどそれを過ぎると一気に転落していく感じがします、わたしは何度同じ落ち方をするんだろうか。

        あとウクライナ語の話なんですけど、本当に面白くない。言語学習の醍醐味は、ただの無機質で退屈な文字列や わけのわからない音の連なりが だんだん意味と必然性をもって目の前に立ち現れてくることだと信じているのですけど、ウクライナ語にはそれがないんですよね。理由というか 原因は簡単で、私がある程度ロシア語をやっているから。ロシア語とウクライナ語はほんとうに似ていて、すでに何を言ってるのかだいたいわかるので、細かい違いを覚えるだけの教科になってしまっていてうんざりしています。でも発音はロシア語より柔らかくて優美な感じ、どうにか乗り切ります、ウム

 

        さて、友人の言を借りるなら、(ほんとうは言だけじゃなくてタイトルも借りました、すてきでしょ、いい記事です)  

いよいよもうひとつ寝るとお正月になってしまいました。20歳になります。

 

        なんというか、毎年言っているような気がしますけど、まさか自分が20歳になるときが来ると思っていなかった。あさってには48歳くらいで、しあさってには骨になってお墓にいるんじゃないかと思ってしまう、そんな速さでびゅんびゅん時が進んでいる。

 

        小学校4年生から大学2年生までを10代で過ごして、高校2年生ぐらいまでの記憶があんまりないんだけど、小学校ではあんまりうまく友達を作れなくて、というか高学年になって突然始まったグループ文化についていけなくて、勉強がしたくて、私立の中学校を自分で探してきて入学して、家のあれこれはきつかったけどほんとうに楽しかったな、初めて自分で選択して責任を取ったことがらかもしれない。

 

        10代後半のここ3.4年間ぐらいはわたしにとってめちゃくちゃ大きいと思う、大仰に言うと これからの人生の土台になるような、そんな感じ  ようやく物心がついて目の前がクリアになっていろいろ考えた日々だった。

 

        あとはやっぱり親ってすごいです、たとえば5年経っても0歳の子供は5歳にしかならないんですよね。当たり前のことを言っているようですが、わたしが過ごしてきたこの5年間のことを思うと気が遠くなるというか、 彼らはこれを20年分やっていたのかと思うと途方もない。  いろいろあったし、まだまだ全然思うところはあるのですが ひとりの人間をこれだけの期間見守る というだけですごいとおもう   率直にありがとうという気持ちです  こういう気持ちで20歳を迎えることができるようになってよかった、間に合った。!

 

        20歳のわたしに期待することは、どんどん自分の世界を拡げること、選択を恐れないこと、自分の声をちゃんと聞くこと、あらゆることに対してちゃんと折り合いをつけること。

        10代のあいだは小中高大と、あんまり自分で選択をする場面がなかった、あったとして志望校だとかそういうことで、高校も大学も義務教育でないとはいえ ほとんど行くことは決まっていたようなものだし、そういうように社会の仕組みがなっていると思うのですが、これからはびっくりするぐらいたくさん 自分で選んで自分でがんばって自分で責任をとらないといけない場面があるんだろうと想像していて、そういうときにいっぱい悩みながらもちゃんと自分で選択して飛び込んでいけるようなしなやかな人間になりたいです。30歳ぐらいまでに自分が腰を据えてやることを決めてその準備が整っていればいいな。選択しない、ということも選択だとおもうし、ハイ

 

        けっこう毎年歳をとるときにはこわくて震えながら過ごしているんですけど(なぜならわたしは絶対に死にたくない)、今年はよりこわい。14歳になったみたいに、19歳になったみたいに20歳になるというだけで、別に特別なことでもないとはわかっているんだけど、なんというか、取り返しがつかない感じがする。可笑しい。

        だけどいつもより少しだけ前向きな気分でもあって、それはここ数年、ここ数ヶ月でかっこいい大人、楽しそうな大人にたくさん出会えているからだと思います。わたしもそういう風になれるのかな、なれるといいな、なれるよね。わたしはわたしの前途を誰よりも祝福します。

 

     

ありがとう10代、もう行くね、ほんとにありがとうね、さようなら。 バイバイ! 

 

透明の夏

      カーテンは開け放して寝ることにしている。目覚まし時計はセットしない。自らの脆弱な自律神経を叩きなおすためである。ほんとうはそこまでマッチョな理由ではないのだけど、太陽の光を浴びて目覚めるのは、直接脳を揺さぶるけたたましいアラームで起こされるよりずっと気持ちがいい。あとバイブレーションがベッドのスプリングから体に伝わってくるのが気持ち悪い。ゆるく冷房をかけて、ねこ用には小さい卓上の扇風機をまわして、ベイプのスイッチを入れて、毛布をかむって眠る。

 

      目がひらいてから、自分を取り戻すまでに時間がかかるときがある。自分が何者で、どういう人間で、いまどこにいて、なにをしなければならないのか、その日の予定、だんどり、食べようと思っていた朝食  みたいなものを全部忘れてしまっていて、それを取り戻すまでは ぼうっと  目を開けているだけの、容れ物でいる。死んでいたのかもしれない、とすら思う。よみがえりの儀式。

 

      そういう始まり方をした日は、一日中なんだか変な感じがする。ちょっと浮いているのだ。歩いていても、電車に乗っていても、講義を受けていても、アルバイトをしていても、食事をしていても、なんだかすごく無垢な気持ちで、ぽかん としていて、頭も心も消費しない。何もかもが自分を通過するように感じる。腹も立たないし悲しくもならない。ああ、と思う。透明になったんだ。

 

      いっとき、眠る ということは大仕事だった。部屋を暗くしてじっと目を閉じるけれど、何者かが後頭部の方で意識をつかんで手放さない。すると頭の前の方がむずがってざわざわしはじめる。眠らないと、明日もやることが山積している。眠らないと、しんどい思いをするのは自分だ。不安な気持ちになって、考えごとが煮詰まって、息が上がって、そのうち目を閉じていられなくなって、そのうちじっとしていられなくなって、起き上がってしまう。明け方にうとうとしはじめて、なんとかこまぎれに2時間くらい眠る。

      そういうことがめっきり減った。眠ることが怖くなくなった。寝るの大好き。睡眠が合法の世界に生まれることができてしあわせ。ストンと眠ってパッと起きる。のそのそ起き上がって、猫を撫でて、洗面所に向かう。

 

     透明な日は、たぶんチューニングをしているのだと思う。いっぱいになった頭と心をどこかへ修理に出して、つるんとした剥き出しの状態で過ごして、ちょっとだけすっきりするために与えられた1日。

 

      夏の日差しは、率直で、痛い。だから自分の輪郭がはっきりする。夏はうるさい。浮かれ気分の夏休みボーイズ・アンド・ガールズも、大学の並木道の蝉もやかましい。だけどそのぶん、自分のなかの静かさを大事にすることができる。

 

      そろそろ認めようかな、わたしは夏が好きだ。湿気も 汗も 蚊も ギラギラの生命も 日焼けも 苦手だけど、夏生まれに免じて許すことにしよう。

   あと1週間で、20歳になる。

 

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起床即猫