移動祝祭日

勘弁してくれ.com

マニキュア

 

マニキュアを塗りました。

何年ぶりなのかな  もしかしたら初めてかもしれない。マニキュアといっても正式にはネイルファンデーションという ちょっと爪をきれいにみせるためのあんまり色の付いてないやつなのですけど、ともかく 剥がすことを目的としないマニキュアはたぶん初めてと思います(幼いころは塗って乾いたら べろん と剥がせるやつにはまっていた)。Twitterでめちゃくちゃおすすめされていたセブンイレブンの500円のやつです。

口コミ(口コミのコミってなんだ?!??!?) や「ラスト1つでした〜♡」という書き込みや 500円という取り返しのつく値段にみごとに煽られころがされてちょっと恥ずかしい気持ちなんですけど、買ってよかったです。 そしていまから  買ってよかったという話をします。

 

まあ  なんというか  いかにこのネイルファンデーションがよい商品なのか ということはきっとわたしが言うまでもなく…というか、率直にいうと初めてで他と比べられないのでよくわからないんですよね。やっぱり利き手はうまく塗れなくてよれよれになってしまうし、塗った後はつまさきがずっとすーすーして(つまさきって言うと足を想像しませんか。指先って言うと手を想像しませんか。なんでなんだろうね。爪は手にもあるし指は足にもあるよ。これは手の話です) 液が乾いたか全然わからなくてむだに長時間びびり申し上げてしまって指の腹を酷使してしまうし、だけどそれでも  普段よく目に入る場所が清潔なかわいい色ですべすべつやつやしているのはすごく気分がいいもので、  勉強するときにもiPhoneをさわるときにもお箸を持つときにも  アッそうだったいまわたしの爪はめちゃくちゃかわいいんだ  と思い出してご機嫌になってしまいます。

 

そもそもマニキュアとかつけまつげとかエクステーションとかアイプチとかカラーコンタクトとか  そういう装身具に じぶんでもびっくりするぐらい興味がなくて、というか そう考えるとほとんどのものにあんまり興味がないんですけど、(自分がどうしてそういうものを屈託なく楽しめないんだろう、という気持ちもあってこの話はけっこう根が深い)  大学生になって お化粧をはじめて、アッ 女の子って おしゃれだけではだめなんだ、おしゃれと美容なんだ  ということに気づいて、いろいろ調べるうちに美容アカウントというハッピーな地獄 もしくは えぐめの天国 のような界隈の存在を知って、だんだん自分の好みというか、重きを置きたいポイントがわかってきて、それは  すこやかでごきげん  ということなのですけど、そこにこのネイルファンデーションがぴったりはまったようなかんじです。あんまり派手じゃないささやかな発色、すべすべつやつやな見た目と触り心地、それに(塗った後びびり申し上げるので) やるべきことをすべて済ませてから 1日の終わりに爪を塗るのはなんだか儀式めいていませんか。  自分をごきげんにする方法をまたひとつ発見したな〜! 祝祭日を持ち運んでいるぞ…がはは  というきもちです。

 

そしてまた穂村弘の話をします。何回目だよ、そろそろちゃんと説明しろよ、という感じなのですが、とりあえず、穂村弘の話をします。またこんど説明もします。

穂村弘の生きる/生き延びる  の話でいくと、おしゃれや美容  ここでは  爪を塗ること  って完全に生きる側ではないですか、別に不可欠じゃないし、そんなことしなくても何も支障はない。でも ほんとうにそうなのかな。あまり物事を二元論で捉えるのは賢くないとは思いながらも 思いきって言ってみると、自分の身を飾ることって 多くの人々にとっては生きる側かもしれないけれど 多くの女の子にとってはめちゃくちゃ生き延びる側なんだろうな、と思う。 生き延びる側のそういうタスクを楽しそうに屈託なく がんがん乗り越えていける 、 目を大きくしたいからカラーコンタクトをつける、まつげを長く見せたいからつけまつげをつける、二重になりたいからアイプチをつける  シンプルに  そして無邪気に最短距離を走ってみせる  そんな女の子たちをみるとほんとうに眩しい気持ちになります。

 

わたしの悪い癖でだんだん話が難しい感じになってきてしまったのでそろそろ終わりたいのですけど、とにかく爪はかわいくなるしわたしの機嫌は良くなるし ほんとうに買って 試してみてよかったです。インターネットとセブンイレブンどうもありがとうございます…🙏🏻

 あとこの記事がめちゃくちゃいいので読んでください

 

さといも

さといもが嫌いです。大学に入ってから気づきました。ほくほくに見えてどろっとしてるのが気持ち悪くて、いまのところ彼らに対しては  食べない/丸呑み  以外の対処がないのですけど、しかし19年間好き嫌いを判定する機会すらなかったなんてびっくりしてしまうなあというかんじです。

 

大学に入って、「苦手な食べ物を思いきって口の中にいれる」というイベントが格段に増えました。そもそもわたしにはOASという持病があってアレルギーがめちゃくちゃ多いのと保守的な性格もあって、わたしにとって「食べたことのないもの」はぜんぶ「苦手な食べ物」で、それでもそういうイベントをこなすたび、むかしよく大人の人にかけられた「おっきくなったら食べ物の好みも変わるよ」という言葉を思い出します。

わたしにとっての食べ物の嗜好の変化は、好みが変わって  嫌いな食べ物が好きになるというよりは、成長してさまざまが鈍って  同時にがまんづよくなってきて、嫌いな食べ物の嫌いたる部分をうまくやりすごせるようになっただけという感じで、どうせ死ぬし何食べてもよくない?という気持ちがけっこうあります。でもやっぱり食に開放的なのは才能だと思うな。わたしもおいしいものにいっぱいであいたい。

あとは食にまつわる価値観は 物心がついていない時期にかなりの部分が形成される気がするので、いろんな人のそういう話を聞いてみたい。わたしが読んだ中でよかったのは  穂村弘の『君がいない夜のごはん』です。わたしはこの本で穂村弘にであい、そして彼が歌人であることを知り、短歌と邂逅したので、まさに運命の一冊という感じです。また本についてもエントリしたいとおもいます。

 

 

君がいない夜のごはん

君がいない夜のごはん

 

 

余談ですが、ご機嫌な父とさといもの話をしました。

 

「さといもが嫌い」「ああ、おれも若い頃は苦手でしたね」「どれくらい若い頃」「あなたぐらいのとき」「今は好きなの」「可もなく不可もない」「どろっとしてるのがいや」「おお〜 同じような理由でしたね」「さといもはいもじゃない」「いもじゃないものを煮っころがしたりするもんかね」「さといもの煮っころがしって見たことある?」「ないこともない」「煮ただけじゃなくてちゃんところがしたやつ?」「ぼかぁそんなことどうでもいいね」「やまいもとさといもはどう違うの」「きのことたけのこぐらいじゃない」「きのことたけのこはどう違うの」「きのこの山たけのこの里」「がはは」

 

 

自転車

 

ひさしぶりに自転車に乗った。4年ぶりぐらいかな。数えてみて、こんなに自転車に乗らずに生きていけるものなのかとすこし驚いた。

わたしは家庭教師として働いており、新しい派遣先までのみちのりが地獄みたいに暗くてとおくてさむくて、ここで殺されても3日ぐらい見つけてもらえないだろうな…というかんじなので、派遣会社にさまざまを申し立てたところ  自転車を買い与えられ、今日が晴れて初の自転車派遣だった。

 

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こわいでしょ。

 

地獄みたいに暗くてとおくてさむい道には当然人通りはないし、ましてや車は通れない道幅で、いつもはポケットに手をつっこんで音楽を聴いて  我慢できないぐらい怖くなったらiPhoneでなんらかを眺めて気を紛らわせている。

最初は  じぶんが暗闇をこわがっている  という状況がなんだか滑稽で すこしは余裕もあったのだけど、暗闇を奥に奥に進んで行くにつれて  じぶんが凄惨な殺人事件の再現ビデオに被害者役で出演しているような気持ちになってきて、しとしとと募る恐怖に完全に負けてしまった。

だけどそこを自転車で走ってみるとけっこう話は別で、 なかなかめちゃくちゃかなりだいぶ楽しかったし、いろいろ考えることがあった。

 

まず、どういう擬音をあてたらいいのかはわからないけれど、自転車が走るときの ゴムと地面がこすれる音。 いつもイヤホンを耳にはめているので気づかなかったけれど、人通りがなく車も通らないので、地獄みたいに暗くてとおくてさむい道は  同時に地獄みたいに静かな道でもあった。そこを平らかにタイヤが滑る音を耳とからだで感じながら自転車を走らせるのは  とても心地がいい。

 

地獄みたいに暗くてとおくてさむい道。

 

タイヤがしずかにこすれる音が気持ちいいとはいえ、地獄みたいに暗いので もちろんライトをつける。すると、あたりまえのことだけど、地面がよく見える。亀裂が走っていたりごつごつしていたり、つやつや黒光りするコンクリートだったり、コンクリートというよりはセメントというかんじの無骨なものだったり。ふだんは地面ばっかり眺めて歩いてるくせに  (地面をスクロールする感覚  わかりますか)  そのみちのりではいつもは 気を紛らわせるのに必死で ほとんどiPhoneの画面しか見ていなかったし、怖いもの見たさで道沿いの廃墟を覗きこんだりはするものの、地面なんて気にしたことがなかった。

 

そして、ああ、自転車って  まわりをよく見ないと運転できないんだな  というあたりまえのことを思い出す。運転中は運転のこと以外考えられない。それはわたしが道をうろ覚えだったからかもしれないし、ひさしぶりの自転車に緊張していたからかもしれないけれど、さいきん四六時中なにかを考え込んでへたをしたら塞ぎ込んですらいるような感じで、そういうときに為せる術が  情報を遮断してひとりでじっと耐える  ということしかなかったので、頭をからっぽにして五感だけをはたらかせるのはとても健全な行為のように思えた。穂村弘の話でいくと、自転車を漕ぐのは生きるというよりは生き延びる側の行為で  わたしは生きるほうを追い求めているけれど、生き延びるほうに身を任せてみるのも すごくいい  ということである。

 

それから、中学生のころを思い出した。中学生のころは毎日自転車通学で、自転車にポールという名前をつけていた。スピッツの曲を3曲ながして、ぴったり3曲めが終わるころに学校に着くように スピードをうまく調節しながら自転車を漕ぐのがお決まりだった。今思い返せば、そのころ家がもみくちゃにもめていて  中学校では我ながら優等生の人気者だったので  登下校の時間が唯一の 正真正銘ひとりになれる時間だった。道沿いの古いケーキ屋さんに想いを馳せたり、ときどき道をきかれたり、春の歌の歌詞の意味が突然わかって鳥肌をたてたりしながら うまく自分で自分のことをあやしていたんだな と思う。

のちのちわたしは心身の具合をどちゃくそに崩して高校に行かなくなるのですが、目下いちばんきつかったはずの中学時代を最後まで健全に送らせてくれて  完全無欠の青春時代を与えてくれてありがとう  あのときのわたしえらいぞ  というきもちになった。それってやっぱり、自転車を運転するときは運転のこと以外考えられないからで、それってつまり道や目的地がはっきりわかっていないと運転できないからで、あんまり主語を大きくすると陳腐になってしまうというのは承知しているけれども、わたしがいま 四六時中なにかを考えこみながら鬱々として 五感をうまく開放/解放できずに生活しているのは 目的地が定まっていないし そのみちすじもわかっていないからだよなあ と感じた。良い悪いはおいておくとして  あのころはどこに向かえばいいのかわかっていたし、疑ってもいなかった。

 

まあじぶんがいま人生におけるそういう時期にいることも十分わかっているので特にだからどうというわけではないんですけど、自分をごきげんにする術をひとつ思い出したようなきもちです。

 

あとは 派遣会社が 新品の自転車を買い与えてくれて、その自転車に目印としてピンクのリボンをくくりつけてくれていて、駐輪場も借りてくれて、駐輪場のおじさんに話を通していてくれて、おじさんはきょろきょろするわたしを見つけて自転車まで案内してくれて、タイヤに空気を入れてくれて、帰りにはおつかれさま  と言ってくれて、世界に愛されている  大人ってすごいな  と思いました。

 

 

 

 

鳥と鳥

鳥と鳥


自転車すいすいソングといえば

Galileo Galilei 『鳥と鳥 / Bird Cage』 - YouTube

youtubeではデモバージョンが聴けます

 

 

 

紙ブログ

試験期間にありがちな   過去のノートやスケジュール帳を読み返す  をやってしまったときの記録です

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短歌

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学校に1日もちゃんと行ってなかった月

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リップヴァンウィンクル

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更生期間

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物心

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🍌

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朝ごはんのこと

今週のお題「朝ごはん」

 

ブログを開設してもうすぐ2週間になるのですが、書きたいことはたくさんあるのに文字に起こすのがなかなか大変で下書きばかり増える…という感じです  ウワー

 

朝ごはん。  朝ごはん食べてますか。

わたしの家は必ず朝ごはん食べる家だったんですよね

長いこと母が専業主婦という形をとっていたので、幼い頃の朝ごはんにはけっこうたくさん思い出があります

たとえば、わたしは「甘いものの後にすっぱいものを口に入れるとさらにめちゃくちゃすっぱい」ということに気づいた瞬間をよく覚えていて、それははちみつがけのトーストと野菜ジュースが朝ごはんにでたときでした   稲妻のように気づきが降りてきたんですよね   そこからはヤクルトとか野菜ジュースは先に全部飲み切ってしまっていたという記憶がある

あとは食パンを6つに切ってチーズトーストを作って パンの耳だけ残したり  パンの面と耳の狭間にあらかじめ念入りにバターを塗っておくことで最後までおいしく食べれるようにしたり バターを塗ってもらうときは  バタナイフでパンを撫でればいいと思ってる父ではなくて しっかりたっぷりまんべんなく塗りつけてくれる母に依頼することに決めていたり  こう考えるとけっこう貪欲にずるいことをしてたんですね  ワハハ

 

そう  それで  健康優良児らしく毎朝欠かさず朝ごはんを食べてたのですが、小学3年生か4年生のときに母が働くようになって  母が家に帰ってこなくなって  帰っては来るけど朝起きなくなったので、朝ごはんは提供されるものじゃなくて自分で用意するものになったんですよね   それがすごく寂しかったし、ちょっとやさぐれたような気がするけどあんまり覚えてない  なぜならまだ物心がなかったので  まあでもそもそも父は朝が早いので家族揃って朝ごはんを食べたような記憶もないな   変な感じです

 

それで結局、母とは別れて  朝ごはんを自分で用意するようになって  高校生の途中ぐらいから食べない日も増えて  そもそも朝ごはんを食べる時間に起きれない  みたいなこともままありつつ  大学生になったわたしの今年の目標は

という感じです

 

自分しか悪くないのですが、ぜったいに学校に遅れたくないし  かといって学校に遅れないために道中で走ったり急ぐのもぜったいにいやで、そうなると講義が始まる2時間前に家を出ないといけなくて、朝の身支度の優先順位が  持ちもの→服装→(化粧)→朝ごはん  になってしまうのですよね

受験生のころに  午前を諦めないやつ  と称して朝の7時とかから喫茶店で朝ごはんを食べてそのまま午後まで勉強するというのをやっていて、まあいわゆる朝活とかいうやつなんですけど、それをまたやりたいな  本を読んだり勉強したりしたい  ウォーー

 

朝ごはん  たしかに自分で用意するようになったけど、たまの休日に父が作ってくれるホットサンドはほんとうにとびきりで世界一で  1日幸せになれるんですよね  あとは一緒に喫茶店のモーニングセットを食べにいってゆで卵の殻だけ剥いておしつけるのも好き  1日幸せになるような朝ごはんを食べたいな   はい   そういうことだな   正解がでました

 

朝ごはんって 穂村弘的に言うと「生き延びる」というよりは「生きる」側の食事ですよね  食事という行為自体は「生き延びる」側なのに  と考えると、どこか享楽的で儀式めいたものを感じてしまう  すごく情緒あるしポエジーな行為と思います   幸福な朝食  儀式としての朝食   自分のためだけの朝食  今年はそういうものにかける時間を作れたらいいな   あと友だちと遊ぶときに朝ごはんから一緒に食べる回をやりたいです

 

 

2017年にやりたいこと

 

今週のお題「2017年にやりたいこと」

 

ブログはお題を出してくれるのでいいですね   2017年  やりたいことが多くて多くてウォーという感じなのですが  とりあえず挙げてみます

 

たくさん本を読む

中学時代は図書室の本棚の右上から左下までを征服するのが快感で 好き嫌い関係なくどんな本もがぶ飲みするみたいに読んでいたのですが 高校に入って 読書に関してちょっと気にくわない制度があって 意地を張っているうちにあんまり本を読まなくなってしまった  もちろん多忙になったのが大きいのですけど

とにかく時間を見つけてまたたくさん本を読みたいな  小説に限らず

 いいのがあったらまた教えてください

 

たくさん映画を観る

2016年も割とたくさん観たと思うのですがさらにたくさんいい作品に出会いたいな  あとは感想や考えたものをちゃんと残していきたい  どんな映画を好きなのかどんな映画を観たいのかを言語化してみたいです

 

たくさん展示に行く

去年は上半期わりと頑張っていたのですけど下半期完全にさぼってしまった

さぼるもくそもないんですけど それでもまあ さぼりましたよね  いまは写真と建築とインスタレーションに興味があります  大学で前期に履修してた西洋芸術の講義がたのしかったので自分でもうちょっと体系的に勉強してみようかなという気持ち  ロシアに好みの画家を見つけたのでちょっと追いかけてみたいな  あとは美術館でやってる展示だけじゃなくて 個展にもたくさん出かけたい  とりあえず富山に行ってみたい美術館が3つあるので 行きます

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ロシアの好きな画家(Константин Разумов)の絵

みた瞬間自分の周りの空気がかわってしまった  写実主義かつ印象派て感じ  めちゃくちゃ現代的で不思議な感じです

http://maherartgallery.blogspot.jp/2012/01/konstantin-razumov-russian.html?m=1

 

まあまとめると 文化にお金をかける  見識を広める  教養を身につけるぞ〜〜 ということです

 

肌をピカピカにする

肌をピカピカにします 七難隠していくぞ

 

ロシア語をがんばる

専攻語がロシア語になったのは完全にたまたまなのですが  何か縁があるんだろうなと漠然と考えている  このメジャーなようでメジャーでない激ムズの大言語を絶対に倒してやるからなという気持ちです  あとはロシアに行きたい  夏にチャンスがあるので少し考えてみます

 

フランス語をがんばる

これは無事に進級できたらの話なんですが 兼修語学というのがあって  フランス語をとろうとおもっているので それをがんばります

 

新生活を始める

引っ越しをする予定があって 通学には不便になるので もしかすると一人暮らしが始まるかもしれないという感じ

よく考えて決めたいです  通学時間が短くなるのは本当にありがたいけどな〜〜〜  なんにせよ進級後はキャンパスが変わるので生活を整えていきたい

あとは 最近  一生この器 からだ で生きてゆくんだなあ ということをよく考えるので 体を気遣う  体調を整える  とりあえずタスク管理をちゃんとやります

 

日記  ブログを続ける

続けます  ビバ記録  ビバ言語化  

 

触れず嫌いを克服する

さまざまに対して保守的なので 音楽にせよ本にせよアイドルにせよ食べ物にせよ映画にせよ  触れず嫌いというか 腰が重くなってしまうことが本当に多い  人生の短さ…!と思ってしまうんですよね   でも去年 ひとから猛烈にシネマ歌舞伎をおすすめしてもらって、それを観に行ってめちゃくちゃ感動して…ということがあり、自分の世界が広がった実感があったので、触れた結果好みじゃなかったりよくわからなかったりすることを恐れずにちょっとずつ克服していこうと思っています  なにとぞお付き合いください

 

サイゼリヤでべろべろによっぱらう

サイゼリヤでべろべろによっぱらいたい。サイゼリヤでべろべろによっぱらいたくない?

サイゼリヤじゃなくても 今年は20歳になるので  よく知っている人とたくさんお酒を飲みたい

 

親孝行をする

20歳になる年  このタイミングで母親と再会して  なんとかうまいことやれるようになったのはすごく大きいなと思います  20年間のご愛顧に感謝を込めて 自分なりに色々考えてやってみたいな

 

高校の先生に会いにいく

諸事情あって卒業がめちゃくちゃ危うかったわたしを あの手この手で卒業させてくれた先生に会いに行きたい

高校で単位が足りずに卒業ムリかもだったわたしが現役で第一志望の大学に合格してフル単してるのめちゃくちゃ面白くないですか

べつに全然面白くないし語弊がありまくるんですけど  まあ別で記事を書きます

 

好意を隠さない

これ去年から言ってるんですけど  今年も引き続きがんばります  ちょっと意識してから楽しいことが劇的に増えた  あと友達も増えた

 

 

なんか雑多になってしまったしまだまだこれから出てくるんだろなという感じですが  こんなところです  

本年もよろしくお願い申しあげます  !

 

 

移動祝祭日

 

移動祝祭日を知っていますか。

 

天皇誕生日やこどもの日のように 毎年決まった日にある祝日ではなく 天体の動きで毎年日付が変わる祝日のことを移動祝祭日といいます。

 

移動祝祭日という追想記を知っていますか。

  

ヘミングウェイの遺作なんですけども 「もし君が、幸運にも青年時代にパリに住んだとすれば、君が残りの人生をどこで過ごそうとも、それは君についてまわる。なぜならばパリは移動祝祭日だからだ」というやつです。

 

 

君が残りの人生をどこで過ごそうとも、それは君についてまわる。

  

完全に呪いやんけという感じなのですが、 持ちはこび可能な祝祭日 呪いとしての祝祭日 一生自分についてくる青年期 のろいとまじないは似ている。

 

自分がすこしでも機嫌よく さまざまに折り合いをつけて 健やかでたくましく平らかに生活できるように やりたくないことはしなくてすむように 祝祭日を持ち運べるように 着脱可能な物心を手に入れられるように 感じやすい心をうまく守れるように 全員でしあわせになれるように 全てを祝福できるように

 

たぶんわたしは今、自分で自分のことを呪っている最中で、自分で自分におまじないをかけている最中なんだろうな 人生の中のそう短くない それでも短い そういうところにいるような気がする 刹那主義的すぎるかな そういう意味ではわたしは広義のパリピですけど また別の話です

 

勢いではじめたブログに感傷的なタイトルをつけてしまった言い訳をだらだら述べてみたのですが なんにせよ自分のなかに移動祝祭日という語彙を見つけられてうれしかった

 

今日は2017年1月6日です