移動祝祭日

勘弁してくれ.com

5月22日

 

        朝起きたらベーコンを4枚、規則正しく並べて焼く。ベーコンチーズトーストを作るのだ。焼きはじめたところでポップアップトースターに食パンをセットし、ベーコンを裏返したらその上にチーズをのせる。チーズがとけた頃にパンが焼けるのでバターを手早く塗って、ベーコンとチーズをのせる。

        これが毎朝の朝食で、食パンは冷凍してある。ここ3日間、スーパーの特売で買ったみっつ入りの安いプリンを食べないとなあと思いつつ、パンを食べ終わった頃には忘れている。

 

        身支度を済ませて学校にいく。天気は良かったが気分はそうでもなかった。2限目を受けながら窓の外を見ると、キャンパスの中心に立つ世界樹と呼ばれるおおきな木が揺れている。

        世界樹はとても大きいのでかなり離れないと全体が見えない。2限の窓から見えるのは後頭部だけだった。後頭部の、左耳の後ろのあたり。風に吹かれた世界樹は枝の先から順番に震え、最後にはおおきな波のように揺れる。外が晴れなのはわかっているのに、大雨の音がするので変な気分である。せわしない音に対して波のうごきは泰然としていて、そのまわりだけ時間の流れ方がおかしい。

 

 

        昼休みの前にとても嫌なことが起こる。激昂というよりは鈍く腫れ上がったような怒りでいっぱいになってしまって、たいへん苦しかった。すぐさま文章におこしてみたけれど、少し言い訳がましいと思ったので消した。

        いつもなら言いきってしまえばすっきりするのに、今回はじんじんする。わかりあえなさを突きつけられるのはとても痛いことだ。

 

 

        学校の帰りに古本屋で2時間かけて本棚をすみずみまで検分し、思うさま本を買った。フランス語の辞書が200円で売っていて、とても慰められた。200円で手元に置ける人類の叡智。

 

 

        家に帰って、1日に40本たばこを吸う人間の物語を読みながらたばこを吸った。今日はなぜだかうまく吸えない。たばこを吸うことは深く息をすることだなと思う。たばこにまつわる感傷的な言説は無数にあって、陳腐だとは思う一方どれもきちんとわかる気がする。

 

        わたしはたばこを吸いたいというよりは、煙を口から出したいのだと気づく。怪獣がそうするみたいに。ぼんやり吸っていると頭が重くなってくる。頭が重くなるのか首が仕事をやめるのかわからないけれど、体感ではなく物理の、数字通りの重さに戻る感じがする。

 

        そのうち吐き気がしてくるのでうがいをする、わたしは水道水を口に入れることができない。煮沸するか浄水しないとなんとなく気分が悪いのだ。このまえ駅前で怪しげな宗教団体の話を30分聞いたけれど、なんの理由もないのに水道水を受け付けないことのほうがよっぽど宗教めいている。

 

        ソファに沈み込んで目を瞑る。いい加減ライターと灰皿を買おうかな、しかし、わたしはたばこを吸う自分のことをあんまり認めていないので、できればほしくない。のっぴきならない理由で、しかたなく、コンロの火を汲んでベランダの床に押しつける、そういう言い訳が必要なのだ。

 

        うまく傷つけなかった、と思う。あまりに気持ちがしんどいとき、体を痛めつけるとすこし救われる気がする。だからわたしはたばこを吸うのだけど、それは別段たばこでなくてもいい。そのうち手首を切るようになる気もする、こんな思考停止の仕方を覚えてしまって、どうするつもり、どうなるんだろう。

 

 

        父親が本を読む姿を思い出す。太くてがさがさの指のなかの文庫本はとても小さく見える。浅黒く日焼けして筋肉のある彼に文庫本は全然似合わない。彼が背中を丸めて本を読む姿は、腕に大切な赤ちゃんを抱いているようにも見える。

        彼が本のページをめくる音が好きだ。がさがさの手で、思い切りよく、でも薄い紙を傷つけないように。べらりっ、べらっ、べろりっ。その拍子に紙から文字が浮き上がって、目や、鼻や、耳に吸い込まれていく。

 

        この人の血をひいているのだ、と思う。

それはとても安らかなことだった。