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女湯のこと

 

        19歳のとき「20歳になったらめちゃくちゃいい財布を買うかピアスの穴のひとつやふたつ開けるか小さいタトゥーを入れよう」と思っていて、だけど結局そのどれもしなかった。

 

        銭湯がとっても好きだ。ひとり暮らしの家で湯船にお湯をはって処理をして掃除をして、みたいなのが面倒だというのもあるけれど、なにより、広いお風呂の開放感はほかの何にも代えがたい。

 

        わたしが銭湯にいくのは大抵父親と焼き鳥を食べた帰りで、じゃあ1時間後に、と約束して女湯と男湯にわかれる。岩盤浴や塩サウナやジェットバスをひととおりまわって、露天風呂にでる。火照った身体に風が気持ちいい。自分の身体からぶわぶわ湯気がたちのぼるのをおもしろく眺める。最初は勢いよく、次第にへなへなになる湯気、おっぱいから冷たくなっていく身体。わたしの中身がぜんぶ湯気になってひらひらの皮膚だけが残るのを想像する。お湯の表面を走った風が水分を孕んで渦をつくりながら湯気にかわる様子に何度でも驚く。

 

 

        開放感は解放感でもある。眼鏡を外して服を脱ぐと、現世から浮いた感じがする。わたしは目が悪いので、誰のこともはっきり見えないし、だから見られている感覚もない。ただ肌色の生命体がお風呂場を行き交っている。メイクやおしゃれやTPOや、社会で真っ当にいきていくための武装ぜんぶを取り払って、ただの肉体として外の空気にあたると、地球上に存在してきたいろいろな生態系のうちのひとつ、というような気がしてくるのだ。携帯電話を持ち込むことも当然できないから、考え事をする。小さく歌を唄ったりもする。「脳みそがあってよかった電源がなくても好きな曲を流せる」という短歌があるけれど、自分の脳みそにきちんと入っている曲はそう多くない。大切に唄う。身体も気持ちも裸で、どこか無垢にぽかんとしている。自分のことだけ考える。

 

 

        お風呂を上がったあと、脱衣所の鏡の前のカウンターに横並びに座ってみんなが髪の毛を乾かしているのを眺めるのもいい。湯上がりには各々の流儀があるからだ。はだかんぼうでまずは何が何でも顔の水分をどうにかする人、ブラッシングに余念がない人、子供の世話にてんてこ舞いの人、服を着る順番、体重計、靴下の枚数、瓶の牛乳、もってきた白湯。

 

        ひろいお風呂での入浴が開放/解放ならば、これは助走だ。それぞれが1日の終わりに癒され、そして明日に向かうための下ごしらえ。肌色の生命体から社会的な動物に戻るための準備、その切り替え、その流儀、各々の生活、そういうものがとっても心強い。

 

        父は長風呂だ。5回銭湯に行ったら3回くらいはわたしのほうが早い。男湯ではどんなことが繰り広げられているのだろう。一生知ることのない世界のことが眩しくもあり、彼が一生知ることのない女湯について誇らしくもある。

 

 

        父は牛乳、わたしはコーヒー牛乳を飲んで、体から湯気を出しながら歩いて帰る。

        20歳になって1年が経とうとしているけど、これからもしばらくはタトゥーは入れないだろうな、と思う。わたしにはまだ女湯の魔力が必要だ。

 

 

(途中にひかせてもらった短歌は岡野大嗣さんの「サイレンと犀」という歌集に収録されています。)