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解像度

 

  わたしは死にたくない。死にたくないから、年をとりたくない。年をとりたくないんだけど、それもいいかなあ と思うことがあって、それは 生きれば生きるほど、目の前の物事の解像度が上がっていくような気がしているからだ。

 

  今何が起こっているのかがきちんとわかる、一般的な正解ではないかもしれないけれど、わたしの範囲の中では過不足なく情報を受け取れていて、だからいつでもその情報の訂正が可能な、安定していて柔軟な状態。特にそういうのを感じるのは、読書をしている時だ。

 

  昔から本当にたくさん本を読む方で、中学生の頃は暇に任せて図書室の本を棚の右上から左下まで、がぶ飲みするみたいに読んでいた。月に25冊ぐらい読んでいたんじゃないかな。休暇のある月はその倍ぐらい読んでいた。その頃はとにかく質よりも量を読みたいという気持ちが大きかったから、かたっぱしから「とりあえず読み終わる」という感じだった。中には難しくて、もやもやした中を手探りですすむような、こじ開けたそばから閉じていくような、いわば近視の状態でしか読めない本もたくさんあった。

 

  そういう読書が最近めっきり減ったように感じていて、もちろんあの頃よりはるかに読んでいる量が少ないというのもあるとは思うんだけど、すべての行が意味を持つようになって、目の前がすごくクリアで、後ろのほう、遠くのところから読めるようになったし、なんというか、世界がパリッとするようになった。隅々まで見渡せているというか。

 

        ぼんやりとだけれど、これは生きている年数がふえるにつれて  受け取ったものを濾して言葉に直すだけの語彙が増えたからなんだろうな、と感じている。  語彙の話は目下がんばって折り合いをつけようとしている話題なので、まとまったらちゃんと公開しようと思う。

 

  それだけ読書をしていながら 古典とかいわゆる名作をあんまり読んでこなかったことにコンプレックスがあったのだけど 最近ますますちゃんと読めるようになってきて、20歳でそうなるのはまあまあでは、と思い直した。わたしの人生の中では今のわたしがいちばん老いているわけだけれども、20歳というのは思いの外若い、たぶん、来るべき時が来たのだ。

 

  昔の霧の中の読書も 身になったかはともかく「1冊をとりあえず我慢強く読んでみる」というよい訓練になっていたのだろう。

        とにかくますます本を読むことが楽しいし、それと同時に、世界中にある本を全て読むことなんてできないという事実に打ちひしがれてしまう。一周まわりはしたけれど、結局今日もわたしは、絶対に死にたくないぞ、とこわばってしまうのだった。