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勘弁してくれ.com

煙草

 

        煙草が嫌いだ。公共の空間での喫煙者はテロリストめいているとすら思う。

 

        一番身近な喫煙者は母だ。わたしは彼女が家を出た後、自分の部屋を物置にして 彼女の部屋を寝床にしているのだが、その部屋の壁には不自然に黄ばんでいるところがちらほらあり、それはなぜかというと、彼女が四六時中 煙草を吸っていたせいだ。

        喘息をもっているわたしの目の前で煙草を無遠慮に何本も続けてふかす彼女のことを、いつも冷たい目で見つめていた。ちょっとしたトラウマなのかもしれない。このひとはわたしの体なんかよりも自分の方がよっぽど大事なんだなあ、などと思っていた記憶がある。そんな感傷的なことばかりじゃなくて、ただ単に匂いが不愉快で、煙を鼻に入れて その匂いを嗅いだそばから肺が汚れていくさまがありありと想像できてしまうのが嫌だった。

 

        この前 初めて煙草を吸った。お酒の席のことで、わたしはがばがば煙草を吸う先輩の横に座っており、楽しく酔っ払っていて気分が良かった。何かの拍子に煙草の話になって、「吸ってみる?」と言われて、だから吸った。吸ったんだけど、煙が喉に刺さって噎せてしまう。「やっぱりやめとこうか、ごめんね」と言われて、なんとなく意固地になって、もう一度試してみる。煙草には吸い方があるらしい。喉を閉じて口の中に煙を吸い込み、一拍おいて、鼻からの空気と一緒に肺までいれる。息を吐き出すと、何かが頭を回る感じがして、くらっとする。眼球が一瞬横にぶれる感じ。それが小刻みに何度かある。煙草をやめられない人はこれが癖になるのかな、とぼんやり思う。

        わたしが煙草をもっている姿をなんらかの画像でみた友達はかなり驚いていたし、父に告白したときはちょっと怒られた。これは余談なのだけど父は煙草は吸わなくてお酒にめっぽう強い。お酒には何も言わないのに煙草は怒るなんて少し変だ。でも気持ちはよくわかるというか、煙草までいくと「いよいよ一線を越えた」感がある。お酒よりも遥かに人生に必要のない、だけどなぜか認められている悪いこと。

 

        煙草を吸ってみてよかったと思っている。あれからじぶんで煙草を買ったり吸ったりはしていないし、受動喫煙は相変わらず嫌いだけれど、やっておいてよかったなあ、と思う。先輩に吸い方を教えてもらうというのも、なんとなくうっすら甘美な気がして、わたしが煙草を吸うならあのやり方しかなかっただろうと思う。なにより、煙草を吸う人々のことをエイリアンのように感じなくなった。なるほどな、と思うだけだ。

 

        煙草というのは、物語の小道具としてもとても優秀だ。感情や時間の流れ、性格を表すことにおいてあまりに優れている。深く息を吸い込んでうまそうに 1本が短くなるまで大切に吸う、火をつけてすぐにいらいらして灰皿にぐしゃぐしゃに押し付けてしまう、灰をこまめに落とすのかほったらかしておくのか。

        わたしが映画をがぶ飲みするみたいに観るようになったのは高校2年生ぐらいからで、とうぜん煙草も数え切れないほど登場していているけれど、自分が実際にやってみてからはやっぱりそれらに対する距離が縮まったと思う。呼吸を合わせることができる。口に煙をためて、鼻から吸い込んで一気に吐く。煙草を吸うのが上手い人は観ていて楽しい。

 

        20歳を迎えて、ひととおりの社会的な制限は解除されてしまった。お酒や煙草や選挙や競馬やパチンコ。それら全てに対して、距離を取るのも迎合するのも完全にわたしの自由であるという事実になかば震えてしまう。

        幼い頃は 「絶対に煙草なんか吸わない、お母さんみたいにならない」と思っていたはずなんだけど、ではこれから先 実際に癖として煙草を吸うことはないのかな、と考えると、全然言い切れない。わたしがあれから煙草を吸っていないのはただ単にライターの使い方がよくわからなくて触るのが怖いからだ。

        だけど今は、許されているけどやらない、いつでもできることがわかっているけどやらない、というひねくれた自由を謳歌することをけっこう楽しんでいる。