誰のせい
わたしにはアレルギーがたくさんある。犬、猫をはじめとするフケを出す動物たち、甲殻類、生の果物や野菜、火のとおりきっていない卵、埃、ダニ、ハウスダスト、イネ科の植物全般、ブタクサ、スギやヒノキ、などなどなど。
厳密に言うと 生の果物や野菜 というのは少し大げさで、わたしには口腔アレルギー症候群という 花粉のタンパク質と食べ物のタンパク質の形が似ているせいで身体が勘違いしてしまう持病があり、そこに当てはまる食べ物は生の状態では食べられない。蕁麻疹が出たり、喉が痒くなって、しまいには気管が腫れて息が肺に届かなくなって窒息してしまう。治療法はなく、基本的にはアレルゲンを含む食べ物を「食べない」という対処法しかない。
卵も、どうしても食べられないわけではないけれど、幼い頃にアナフィラキシーショックを起こして呼吸停止に陥ったことがあり、周りのトラウマもわたしのトラウマも根深く、かたく焼いた卵でないと食べられなくなってしまった。
「◯◯が食べられないなんて、人生の8割損してるよ〜」と、言われる。
わたしが口腔アレルギー症候群を発症したのはけっこう成長してからのことで、それまでは果物が大好きだった。甲殻類もそうで、甘エビの寿司用のパックを1人でまるまる食べていた時代もあった(らしい)のだけど、ある日突然、甲殻類を食べると吐き気やだるさが起こるようになった。
好きなものが急に食べられなくなるのは、けっこう堪えることでもある。たとえば、大きな学校行事の時にはスイカが出てくることがよくあったのだけど、わたしは食べられない。みんなが食べ終わるのを横でしずかに待っている。給食のデザートに出てくるフルーツも、メインディッシュのエビフライも、食べられない。味を覚えているし、何なら好物ですらあるのだけど、食べられない。そして、わたしは 人生の8割を損している と指摘される。
わたしは自分のアレルギーのつらかった思い出をほりかえして公表したいわけではない。人生の8割〜みたいなことを言われるたびに 「お前の人生は8割もエビなのかよ」「でも8割がエビの人生ってそれはそれで最高っぽいな〜」と思ったりして、けっこうお気楽なもんだった。
わたしが何を言いたいかというと、誰のせいでもないことへの向き合いかたって難しいよなあ、ということである。
わたしがアレルギーをたくさん持っていて不自由する場面がときたまある というのは、別にわたしのせいではない。何かの罰としてメロンやスイカが食べられない体にされたわけではないし、もちろん、母親のせいでもない。そして、わたしが悪くない以上に、周りはもっと、悪くない。
だから、わたしは 自分の範囲を飛びこえての 周知を!とか、配慮を!とかはあんまり思わない。 わたしの自由のために他の人を不自由にしてはいけないと思う、なぜなら不健全だから。わたしは健やかであることを愛しているから。
そりゃ周りの理解というのは必須で、たとえばビュッフェに行った時にわたしが生野菜を取らなくても「窓際さんって野菜全然食べないんだねww」と からかうのはやめてほしいし、家でご馳走になるときにサラダをわざわざ温野菜にしてくれたりする気遣いがすごく嬉しい。お店を選ぶときに「食べられるものありそう?」と聞いてくれるだけでもめちゃくちゃに救われる。
でもそういうのって、絶対に当たり前じゃない。お互いが気持ちよく過ごすための思いやりで、それはタダじゃない。優しさは消耗品で、だから、他人からの優しさの搾取は暴力だ。全員が幸せになるための営みを、決して軽視してはいけないと思う。わたしは自分の食べられる範囲で好きなものを食べるし、みんなもわたしの目の前で自分の好きなものを おいしそうに、幸せそうにたべてほしい。
大げさに聞こえるかもしれないけれど、でもこれはけっこう範囲の広い話だと思っていて、何の話をするにしても「自己責任」っていう言葉が使われるようになっているけれど、そんなに簡単なことなのかな、と思う。赤ちゃんは泣くのが仕事だし、それでもうるさいものはうるさい。赤ちゃんが悪いわけでも、泣き声をうるさく思ってしまうこと自体が悪いわけでもない。「自己責任」という言葉を使うと、手軽に、しかもかっこよく思考停止することができる(中には本当に自己責任な話もあるだろうけど)。どちらにせよ、責任の所在ってそんなに簡単に明らかになるもんなんですか、その日の風速とか風向きとか湿度とか、なんかそういうのがいろいろ、あるんじゃないですか、明らかにしたところで糾弾しかやることがないのならハチャメチャに不毛だし、なんというか、世の中あまりにもままならないな という感じ
誰のせいでもない、私は悪くないけれどあなたも悪くない、という時にどんな風にふるまえるか。けっこうさまざまが試される場面だと思うのだけれど、今のところは、とどのつまり、お互いができることをやるしかなくないですか、みんなで幸せになりましょう という感じで、より大人になったわたしがいつかもうすこしうまい答えを見つけてくれるのかな、と、漠然と期待している。