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移動祝祭日

勘弁してくれ.com

世界を信用する

    「窓際さん、今日のフランス語くる?教科書忘れちゃって見せてほしいんだけど」 と彼に声をかけられたのは先週の金曜日だった。いいよ、と答えて、彼の名前はなんだったかな、と思う。

 

    じゃあ隣に座る?この辺でいいかな。

    わたしも教科書忘れてたらシャレにならないね、と言ったら、そしたら一緒に帰ろ、と彼が答えたのでびっくりした。

 

    フランス語とイタリア語は文法は簡単だよ、発音は難しいけれど。中学校の学級文庫に文法書があったから一通り読んだんだ。あんまり覚えてないけどね。

 

    へぇ〜〜中学校で!すごい。どんなアレなの、私立?エッちがうの、へぇ〜〜なるほど。ほうほうほう、あー、なるほどね。そうなんや、すごい。!

 

    なんて身のない返事をしているんだろう。もっと気の利いた返事がしたい。返事というか、相槌でしかないな、アッ名前思い出した、カワイくん、そういえば河合塾で浪人するひとが「カワイもハワイもほぼおなじ!バケーション!」みたいなことを言っていて天才だと思ったのを思い出した、これからこっそりハワイくんて呼ぼう、同じ専攻語で週5時間同じ授業を受けてるのに初めて喋ったな、腕と足が長いな、手首から肘までと膝からくるぶしまでが長い、姿勢が悪くて背が高い、普通の格好してるのにモード系に見えるのはなんなんだろう、めちゃくちゃ居眠りするやんけ。

 

    「ねえ、今週もみせてくれる?」と彼に声をかけられたのは今週の金曜日で、もーう、と答えて、今週もちゃんと教科書を持ってきてよかった、と思った。

 

    なんでロシア語専攻をえらんだの?おれはね、ロシアで諜報活動もやる警察みたいなやつになりたかったけどむりなんだ、目が悪くて、あと中国人のハーフなんだけど、ふふ、中国語全然喋れないけどね、血筋がだめなんだ、スパイと間違われるから。だからロシアで日本の中古車を売って大儲けして豪邸に住む。わはは。

 

    エッそんな職業があるの、エッ ハーフ、エッ スパイ、手足が長いのはそういうことか、わたしも大儲けしたい。

 

    わたしが、フランス語の教科書を忘れたので授業に出るのをやめて早めに帰ることにしたのは先々週の金曜日で、誰かに教科書をみせてもらえばいいんだ なんて、思いもしなかった。

    名前は覚えてなかったけど(ほんとうにゴメン)彼の存在はわかっていたし、たとえ彼にじゃなくて 隣の席の人にでも「教科書をみせてくれませんか」と、ひとこと言えばよかったのだ。そんな けっこう当たり前のことに今更気づいてびっくりしてしまった。

 

    わたしと彼は、友達になったとおもう、たぶん。ひとと繋がるのは楽しいし嬉しい。

 

    外国語学部しかない山奥のせまいキャンパスで ひととすれ違うのには体力がいる。顔を見たことがあるひとが前から歩いてくる、目を合わせるか  手を振るか  声をかけるか 迷う、けっきょく遠い目をして、あなたのことではなくあなたの方向にあるなんらかをボーっとみています、というような間抜けな顔をしてしまう、向こうから声をかけてもらっても一体どういう知り合いだったか思い出せない。

    わたしが思うに、交友関係が広いひと というか、わたしが躓くものに躓かないひとたちって躊躇いや屈託がない。世界や、人や、コミュニティのうちのやわらかそうなところに、エイッと飛び込んでしまえる。
『‬‪そういう時に怒れる人っていうのは、多分世界や人間に対するある信頼感を持ってるっていうか、少なくとも相手が自分と同質、同じものだって感覚が前提にないとダメで、すごく深いところで他者を恐れてるとそれができないんだと思う。‬』というのは穂村弘のことばで、「そういうとき」がどういうときなのか 文脈は思い出せないけれど、つまりそういうことなんだろうな、と思う。

    彼の下の名前はなんだっけ、と気になって専攻語のLINEグループから彼のアカウントを呼び出すと、サムネイルには ペコちゃんみたいに舌を出してウインクしてにこにこ笑う彼がいた。つまりそういうことだ。

 

    わたしは彼と目を合わせられるだろうか、声をかけられるだろうか、手を振れるだろうか、彼は、ハワイくんは、応えてくれるだろうか。

    わたしは、世界を信用できるだろうか。