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『たかが世界の終わり』

 

グザヴィエ・ドラン 監督最新作の『たかが世界の終わり』を観ました。

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 あらすじを引用します。

「もうすぐ死ぬ」と家族に伝えるために、12年ぶりに帰郷するルイ(ギャスパー・ウリエル)。母のマルティーヌ(ナタリー・パイ)は息子の好きな料理を用意し、幼い頃に別れた兄を覚えていない妹のシュザンヌ(レア・セドゥ)は慣れないオシャレをして待っていた。浮き足立つ2人と違ってそっけなく迎える兄のアントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)、彼の妻のカトリーヌ(マリオン・コティヤール)はルイとは初対面だ。オードブルにメインとぎこちない会話が続き、デザートには打ち明けようと決意するルイ。だか、兄の激しい言葉を合図に、それぞれが隠していた思わぬ感情がほとばしる。

 

ここからは感想というか、だらだらいろいろ考えたことを書いてみようというアレなのですが、ネタバレもネタバレじゃないところもぐちゃぐちゃで、まあこの映画はネタバレもくそもないタイプのやつなのですが、アッムリ!!!と思ったら、あの、すみませんが  よろしくお願いします。

 

ドランの映画  いいに決まっているのでわざわざ褒めるのめちゃくちゃアホっぽいんですけど、すごい映画でした。

 

ひとことで言うと、わたしのための映画でした。息をする暇がなかった。 舞台が用意されているだけで説明が本当に一切ないんですけど、でも  痛いぐらい、痛いのに笑ってしまうぐらい わかってしまう、受けとってしまう  というかんじでした。それは わたしが母親と3年ぐらい会えていなくて、会わなくなる前から長いこと仲も悪くて、望んで別れたわけではないけど  時間が経ってもどうしても会えなくて、それでもどうにか今年 再会して 母と娘をやり直しはじめた、少なくともわたしはやり直し始めることができたと思っている  というところにいるというのが大きいと思うのですけど、たとえば、久しぶりの再会における固有名詞の共有できなさだったり、黙っていることも自然に話すこともできなくて 嘘っぽい会話をにこにこかさねるしかない、ということや、再会を待ち受けている側が自分の好物をこしらえて待っていてくれる面映さも、わたしはよく知っていました。前半は、そういうものの追体験のようでとても息苦しくなったりもした。 お母さんに再会するまでのわたしが観ていたら どんな風に感じたんだろう、とも思います。

 

 

母親からルイへの台詞で「あなたのことは理解できない。だけど愛してるわ。」というものがあるんですけど、ああ、つまりそういうことだ、そういうことなんだ、と思いました。これはレトリックとしての二項対立や まして 二物衝突でもなんでもなくて、事実なんだということが、実感としてすとんと腑に落ちたとき、心底震えてしまった。

 

つまりどういうことかというと、うーん

 

ひとは基本的に  他者から愛されたがりますけど   では自分が愛されてるということを正気で受け止めるだけのアレがあるかないか  というのはけっこう別の話というか   見落としがちなところで 、

家族であっても他人は他人だと認めること、あなたはわたしではないし  わたしはあなたではないと認めること、わたしは誰の思い通りにもならないし、あなただってわたしの思い通りになんかならない、理屈でうまく折り合いがつくことばかりではないし  だからって想いが伝わるとも限らない  と認めること、そのうえで、わたしはあなたを愛しているし、あなたはわたしを愛していると 理解し、受け容れること、そして、それを受け容れた自分ごと抱きしめてあげることがどれだけ大変か という映画だったのかな、という感じです。

 

そういう類の受け容れというのは ある種の諦めなのでしょうけど、でも諦めでしか救われないものや、諦めてからしか動けない場合って確かにあるでしょうという

 

たとえば、ルイの言葉やルイと家族の会話を、表層的で最悪だ、わけがわからない なんの意味があるんだ って兄は言ってたけど、 記号が人を救うことだってある。ここでの記号っていうのは  「アホのふりをする」ということなのですけど、アホのふりをするのってすごく難しくて、なぜかというと アホのふりができるのは賢い人だけ というか ある程度の覚悟を決めた人だけだからなんですよね。 もういちど「家族」に戻るためには、時間を巻き戻すためには、辛抱強く 手順を踏まないといけない、いくらもどかしくても、噓っぽくとも、みんなで協力して  ぎこちない  気恥ずかしい時間を乗り越えなければならない。それは、たとえ嘘でも年の離れた妹に「いつでも遊びにおいで」と言うことだったり、長兄に「もっと自由にやっていいんだ、いままでありがとう」と言うことだったり、会ったことのない子供の名前の由来の話を気持ちよく聞くことだったりすると思うのですが、言い換えれば 思いやりの儀式というか まあ一応の好意の表明 ということで、それができていた、やろうとしていたのはルイと母親と兄の妻で、それをどうしても耐えがたく思ってしまうのが兄だったのだなあ、と思う。すごく正直で不器用な人で、いちばん生々しく人間的な人でした。

 

 

理解されないのはつらい。ルイはちょっと違う世界の人で、心からの言葉を「お前が何を言ってるのかわからない」と言われてしまう(これはめちゃくちゃ身に覚えがあってつらかった) 。 そして、理解しがたいものを理解するのもつらい。でも愛していること、愛されていること だけはわかる。だからお母さんは「次はきっと大丈夫だから」と言って自分からルイに背を向けるのでしょう。 次なんてないんです。ルイはもう死んでしまうから。でもこの一言でみんなが救われた。愛が届いた。すごい台詞です。

 

これを里帰りの話だと捉えると、才能があって家族を置いて出て行って  やっとその不在に慣れたところに 勝手に帰ってきて辛そうな顔をするルイのことをめちゃくちゃ嫌いになると思うのですが(そしてドランはわざとそういう舞台を用意したんだと思う) わたしは  事実として  どうしてもルイ側の人間で  ただの里帰りの話とは思えませんでした。確執もあっただろうし(そのヒントはけっこうちりばめられている)  それで家を出て、それでも毎年お誕生日カードを家族全員に贈って(それは家族の誰よりもルイの慰めになっていただろうな、儀式として)、それで もうすぐ死んでしまうという段になって  やっと帰って来た。もうすぐ死ぬというのが、病気で死んでしまうのか、もうすぐ死ぬことにルイが決めたのか、そういう説明は全然ないんですけど、結局どっちにしても 登場する5人の考えてることや気持ちをしっかりまるっと 伏線回収するように理解することはできない  なぜなら  観ているわたしと彼らもまた他人だからです。ああ、めちゃくちゃひとりなんだな  でもそれってものすごい救いでもあるな  と思いました。

 

 

共感する、とか 泣ける、とか おもしろい、とか  ラストが云々、とか  そういう映画ではありません。受けとれる人間が受けとって、ずっと大切にしていく類のものだと思います。それをもしかしたら芸術と呼ぶのかもしれないんですけど  そういうものに その気があればいくらでもアクセスできる時代 もっと言えば ドランが生きている時代に生まれてこれて本当によかったな〜と思います。

 

ひとりで観るのがいいとおもいます。