移動祝祭日

勘弁してくれ.com

地面に寝転がる

   夜中、だいたい23時ぐらい  もうすこしおそいこともあるけれど、地面に寝転がることがある。家の前の道路だったり、駅からの帰り道の人通りのない真っ暗な道路におもむろに座り込んで、エイッと横になる。横になると、 そういえばわたしはいちにちじゅうを縦で過ごしているんだなあ、と思う。首や背中や、腰の筋肉がほぐれて、コンクリートのつめたさを感じ、おさまりのよい体勢におさまる。夜空を見上げて指の先まで力を抜いて寝転んでいると、自分の体を捨てているみたいな気分になる。

 

   おもうに、心がいらない日と体がいらない日があり、両方が調和する日ってけっこう貴重だ。いらないというのは、なんというか、足を引っ張るということで、どちらかがしんどい日がほとんどという感じ、わたしは日々のほとんどをどちらかの働きのみによって過ごしており、例えば精神的にめちゃくちゃしんどいときでも自分の歩調は一定で、そのリズムに救われたりだとか、たとえば体力が限界な日に奮い立って早起きをして外で朝ごはんを食べることでどうにか1日をちゃんと始める元気がでたりだとか、そういうなかば歪なやり過ごし方をしていて、地面に寝転がることは、その歪さの矯正の時間のように思う。

 

   ベッドやフローリングでなくどうして地面なのかというと、ただ単に 悪いこと というか 正気でないことをしている気分が楽しいからというだけなのだけど、そういう変な時間  なんの役にも立たない時間を日常生活のうちにもつことは思ったよりわたしの心を軽くする。生活に直結しない なんだか浮いてるような そういう時間のことを いまはとても気に入っている。 だから梅雨も夏も勘弁してくれという気持ち !

 

   でも最近ほんとうに多忙で生活リズムはおろかものごとの優先順位すらつかめずにいて 毎日力技とやけっぱちでどうにかしている感じ、真人間チャレンジも敗北続きです  ヒー  あまり肩に力を入れすぎずに淡々と進めばいいな

短いけれどおわりです

 

 

いつのまにか飴が貰えない

    外食が多い家庭だった。過去形なのは、父とふたりの生活は 家庭 というより 家族 だし、わたしの実感としては 家族 というより ユニット だからだ。

    ともかく外食が多かった。家の近くには備長炭で朝びきの鳥を焼く焼き鳥屋があり、わたしが覚えている限りでは週に3〜4回行っていたときもあったと思う。のちにその焼き鳥屋のへんくつオヤジとめちゃくちゃなけんかをして出禁になったのは別の話として、おかげで鳥貴族みたいなファストな焼き鳥屋に行っても満足できない体になってしまった。鳥貴族行ったことないけど。わはは。あとはファミリーレストランだとか居酒屋さんだとかお好み焼き屋さんだとか、まあとにかくほんとうに、外食が多かった。

   

   帰り際、両親がお会計をする、店員さんがわたしと妹に気づく、その幼さにも気づく。飴がたくさん入った箱を差し出してくれる、少し照れながらひとつ選ぶ、妹のぶんも代わりに選ぶ、もっと照れながら、だけどすこし誇らしい気持ちでお礼を言う。 頭を撫でられる。こういうのを、何百回もやったと思う。でも毎回くすぐったくて、うれしかった。

 

   もう、飴は貰えない。いつから貰わなくなったのかわからない。いま貰えたとして、きっと そのくすぐったいのに耐えられないだろう。大人の好意を素直に受け取れる年齢制限にひっかかってしまう。なぜならもうすぐわたしも大人になってしまうからだ。

 

   「お仕事なにしてるんですか?」と訊かれる一方で「高校生ですか?」とも訊かれる。年齢確認をされたり、飲み放題を勧められたりする。わたしは一体何歳に見えているんだろう。どんな風に見えているんだろう。おとなっぽい、落ち着いている、顔がおぼこい、友達多そう、友達いらないと思ってそう、人懐こい、冷たい。自分がよくわからない、自分が思う自分とほかの人が言うわたし の差にけっこうくらくらしてしまう。セルフプロデュース、という言葉が頭をよぎるけど なんだかなあと思う。みんなどうしてるの。それとも何も考えていないの。

   

   20歳からおとなになるのだ  と聞いて、19歳と20歳のはざまの00:00ちょうどに、  パチン  と大人になるのだと思っていた。そうして大人になったら、大人であるための決まりやふるまい方が自動的に脳にアップデートされるのだと思っていた。

   そもそも20歳から大人、というのは誰かえらい人が勝手に決めたことであって、それにわたしたちが振り回されてワタワタする必要もないとは思うのだけれど  ウーム  実感として 確かにそう思っていたんですよね。幼い思い込みというのは幼いぶんだけ強力なのだとおもう。

 

   だけど、実際は 大人になるスイッチなんてどこにもなかった。このまえ 友人が20歳の誕生日を迎える瞬間に立ち会ったのだけど、ホラー映画を観ながら、不安な音楽にどきどきして、寿命が縮む思いをしながら迎えたその日、00:00を過ぎても、彼はいつも通りの彼だった。心のどこかで、00:00ちょうどになったら隣の彼が パチン と弾けて 大人 という生き物に変態するかもしれない、とおののいていたけれど、ぜんぜんそんなことはなかった。「正真正銘の大人の男性と一緒にいる!」という感慨はけっこう面白いものだったけど、どこから眺めても彼はやっぱり彼だった。よかったあ。

   思えば誰かが20歳になる瞬間に立ち会うのってけっこう貴重なことではないか、そんなめちゃくちゃ個人的な場に居合わせさせてくれてありがとうという気持ち、誰かのお誕生日を祝って健やかさや幸せを願うことはいちばん上等な儀式だと思う、ありがとうありがとう。 

   

   としをとることって、ほんとうはじわじわ滲んでいくことなのかもしれない、と思う。いつのまにか飴が貰えなくなったように、いつのまにか年齢確認をされたり高校生に間違われたりしなくなる。いつのまにか大人の決まりやふるまい方を自分で学んで更新していく。思春期に絡めとられてもがいていた悩みは、「大人になった」という理由だけでは解決しないし、わたしと父親の小さいけれど満ち足りているユニットはいずれ、遠くない将来 解散する。

  うーん、人生はひと続きなんだとようやくちゃんと気付いたような感じ、あとは どうやら自分の力の及ぶ範囲って自分で思ってるより狭そうだ、いろんな流れに気持ちよくのってみるのもアリかもしれない とも思った  

全ての誘いに無差別にイエスと答えまくった結果 いま人生がかなり面白くなっています 激烈にハードだけど  ウフフ

   

   そういう  いつのまにか  をときどき振り返ってちゃんと自覚しながらゆっくり大人になっていきたいな。あと2ヶ月とすこし、身辺整理に励もうとおもいます。ちいさなことからこつこつと! ハイ

 

   なんかとっちらかってしまったけど、おわりです  大人は最高!と言える大人になりたい

 

ここ最近のテーマソングです

https://www.youtube.com/embed/O-_FzfrOV0o

 

世界を信用する

    「窓際さん、今日のフランス語くる?教科書忘れちゃって見せてほしいんだけど」 と彼に声をかけられたのは先週の金曜日だった。いいよ、と答えて、彼の名前はなんだったかな、と思う。

 

    じゃあ隣に座る?この辺でいいかな。

    わたしも教科書忘れてたらシャレにならないね、と言ったら、そしたら一緒に帰ろ、と彼が答えたのでびっくりした。

 

    フランス語とイタリア語は文法は簡単だよ、発音は難しいけれど。中学校の学級文庫に文法書があったから一通り読んだんだ。あんまり覚えてないけどね。

 

    へぇ〜〜中学校で!すごい。どんなアレなの、私立?エッちがうの、へぇ〜〜なるほど。ほうほうほう、あー、なるほどね。そうなんや、すごい。!

 

    なんて身のない返事をしているんだろう。もっと気の利いた返事がしたい。返事というか、相槌でしかないな、アッ名前思い出した、カワイくん、そういえば河合塾で浪人するひとが「カワイもハワイもほぼおなじ!バケーション!」みたいなことを言っていて天才だと思ったのを思い出した、これからこっそりハワイくんて呼ぼう、同じ専攻語で週5時間同じ授業を受けてるのに初めて喋ったな、腕と足が長いな、手首から肘までと膝からくるぶしまでが長い、姿勢が悪くて背が高い、普通の格好してるのにモード系に見えるのはなんなんだろう、めちゃくちゃ居眠りするやんけ。

 

    「ねえ、今週もみせてくれる?」と彼に声をかけられたのは今週の金曜日で、もーう、と答えて、今週もちゃんと教科書を持ってきてよかった、と思った。

 

    なんでロシア語専攻をえらんだの?おれはね、ロシアで諜報活動もやる警察みたいなやつになりたかったけどむりなんだ、目が悪くて、あと中国人のハーフなんだけど、ふふ、中国語全然喋れないけどね、血筋がだめなんだ、スパイと間違われるから。だからロシアで日本の中古車を売って大儲けして豪邸に住む。わはは。

 

    エッ  そんな職業があるの、エッ ハーフ、エッ スパイ、手足が長いのはそういうことなのかな、わたしも大儲けしたい。

 

    わたしが、フランス語の教科書を忘れたので授業に出るのをやめて早めに帰ることにしたのは先々週の金曜日で、誰かに教科書をみせてもらえばいいんだなんて、思いもしなかった。

    名前は覚えてなかったけど(ほんとうにゴメン)彼の存在はわかっていたし、たとえ彼にじゃなくて 隣の席の人にでも「教科書をみせてくれませんか」と、ひとこと言えばよかったのだ。そんなけっこう当たり前のことに今更気づいて、びっくりしてしまった。

 

    わたしと彼は、友達になったとおもう、たぶん。ひとと繋がるのは楽しいし嬉しい。

 

    外国語学部しかない山奥のせまいキャンパスで ひととすれ違うのには体力がいる。顔を見たことがあるひとが前から歩いてくる、目を合わせるか、手を振るか、声をかけるか、迷う、けっきょく遠い目をして、あなたのことではなくあなたの方向にあるなんらかをボーっとみています、というような間抜けな顔をしてしまう、向こうから声をかけてもらっても一体どういう知り合いだったか思い出せない。

    わたしが思うに、交友関係が広いひと というか、わたしが躓くものに躓かないひとたちって躊躇いや屈託がない。世界や、人や、コミュニティのうちのやわらかそうなところに、エイッと飛び込んでしまえる。
『‬‪そういう時に怒れる人っていうのは、多分世界や人間に対するある信頼感を持ってるっていうか、少なくとも相手が自分と同質、同じものだって感覚が前提にないとダメで、すごく深いところで他者を恐れてるとそれができないんだと思う。‬』というのは穂村弘のことばで、「そういうとき」がどういうときなのか 文脈は思い出せないけれど、つまりそういうことなんだろうな、と思う。

    彼の下の名前はなんだっけ、と気になって専攻語のLINEグループから彼のアカウントを呼び出すと、サムネイルには ペコちゃんみたいに舌を出してウインクしてにこにこ笑う彼がいた。つまりそういうことだ。

 

    わたしは彼と目を合わせられるだろうか、声をかけられるだろうか、手を振れるだろうか、彼は、ハワイくんは、応えてくれるだろうか。

    わたしは、世界を信用できるだろうか。

 

思いの外だいじょうぶな話

  案外だいじょうぶじゃないか、と思う。なんだ、そんなに心配することじゃなかった、そんなに深刻になることじゃなかった、と、ほっとするような  拍子抜けするような、自分の生真面目な間抜けさを呪うような気持ちになる。

 

  たとえば、高校の友達と一緒に入った軽音楽のサークルに いつまでたっても馴染めない思いをしていたこと。

高校の友達はすぐに先輩に気に入られて遊びに行ったりしていて、だけどわたしは媚びたりアホなふりはできなくて、その癖  「自分の知り合いがいない会にはわたしを誘って盾にするくせに  たまにはちゃんと楽しい会にも誘ってくれたっていいじゃない」と拗ねたりしていた。

  演奏がうまい人より練習をがんばる人より、飲み会での振る舞いがうまい人の方がバンドに誘われて、不真面目な練習の挙げ句 本番では笑えない演奏をしたりしていて、わたしの方がずっといい演奏ができるし、わたしの方がちゃんと練習もするのに、と もやもやしていた。

  合宿で 自分の担当の曲を譲りたい、という先輩からの誘いを丁重に断ったら「窓際さんってやっぱり経験者で確かに上手いから、プライドが高いっていうか、じぶんが強いっていうか、自分のやりたいことしかやりたくないのかなって思ってた、そして仲間内でそんな話になった」て後々聞かされてはてしなくめげてしまったし、そもそも、仲間内って誰やねん、そして割り当てられた曲のなかで一番難しい曲を、後輩に、直前になって、譲りたいて言ってきてるのはそっちの甘えでしょ、譲りたいんじゃなくて僕には無理だったので代わりにやってください でしょ、100万歩譲ってじぶんがやりたいことしかやらないことの何が悪いの、一億歩譲ってわたしのことをどう思おうとどう仲間内で話そうと勝手ですけどわざわざ本人に聞かせて何がしたいの、という怒りはあったけど  これはどうやらスタートダッシュを誤ったんだな〜〜 可愛げがない、ウォーーーーン と落ち込んだりしていた。

  だけど、サークルの同期の女の子の家で 学園祭から打ち上げのあいだの時間をつぶしているときに、ふと冷静になった。ちゃんと友達、ここに、いるし、先輩から演奏を褒めてもらえたりもするし、そもそもわたしは先輩とでかけたりしたいのかな  うーんちょっと違う気がする  誰でもいいわけじゃない  と思ったりして、よく考えてみるとじぶんがバンドが組めなくて困ったことってなくて、最近さらにたくさん誘ってもらえるようになって、仲のよい先輩もできて、つまり、思いの外だいじょうぶだった。

  なんだ、友達いるじゃん、けっこう馴染んでるじゃん、認めてもらえてるじゃん、確かにしんどい思いはしたけれど、そのしんどさにずっと巻き込まれていたんだな、と思った。

 

  たとえば、大学に友達が全然いない、と悩んでいたこと。

  知り合いはいる。授業が同じになってときどき話す人。すれ違うときに声をかけあう人。欠席した授業のノートを見せてくれる人。ときどきお昼ご飯を一緒に食べる人。ときどき一緒に帰る人。好きな映画や本の話をする人。

  たぶんわたしは、休みの日や学校をさぼって遊びに行くような関係の人がいない、とか、毎日お昼ご飯を食べるようなおきまりの人たちがいない、とか そういうことを考えていたと思うのだけど、休みの日に遊びに行くような関係の人は、大学の友人に限らなければ、いるし、それも最高の人々が、いるし、よく考えると毎日お昼ご飯を食べるようなおきまりの人たち、ほしくないし、思いの外だいじょうぶだった。

 

  たとえば、青春のToDoリストを何ひとつこなせていないような気分になっていたこと。

  制服でユニバーサルスタジオジャパンに行く、サプライズのお誕生日パーティをやる、岡山あたりまでドライブする、三重県でもいい、誰かの家でたこ焼きパーティをする、カラオケ・オールをする、無茶なお酒の飲み方をする、あとは恋愛にまつわることすべて。わたし以外のみんなが当たり前にこなしているあらゆること。

  だけど、わたしにはわたしの青春があり、それは はちゃめちゃな読書だったり、大好きな男の子と一晩中語り明かすことだったり、世界でいちばんすごくすごい女の子とルームシェアをすることだったり、二日酔いでライブに出ることだったり、夜行バスに乗って紫陽花を見に行くことだったり、はちゃめちゃに酔っ払って  飲み会をふたりで抜け出して誰もいない道路に寝転んでみることだったり、丁寧に時間をかけて大切なともだちの誕生日プレゼントを選ぶことだったりする。ちゃんとわかっている。

  無茶なお酒の飲み方もたまにはするし、制服はもう二度と着たくないし、カラオケオールはそんなに特別楽しいことでもないと知った。思いの外だいじょうぶなのだ。

 

  わたしは、ひとりでいるのが好きだし  ひとりでどこへでも行ける。四六時中他人と一緒にいると心身の両方が疲れきってしまう、だけど人と話すのは好きで、情緒を重んじたくて、だからはちゃめちゃな遊び方が好き。話が通じないひとと一緒にいるくらいならひとりでいたいし、絶対にやりたいことと絶対にやりたくないことがはっきりしていて、「みんなとおんなじ」であるためにその意見を曲げることは  わたしの意思に関係なく不可能に近い、だけど未知のおもしろそうなものに対してあんまり耐性がなくて、誘われたらほいほいついていってしまう。

  自分のことをよく見つめてみると、わたしは欲しくもないものを欲しがって、もしくは欲しがらないといけないような気がして、かなりしんどい思いをしたのだな と思う。欲しいものは実はちゃんと手に入っているのに、それを見ないで、よくわからない一般論をひきあいに出して つらいつらいつらい!という気持ちになっていた。わたしが  手に入らない…!と絶望していたものたちは、実はすでに手に入っていたり、べつに欲しくないものだったのだ。

 

  わたしは、だいじょうぶ、自分で自分を見失わなければ、だいじょうぶ 。

  鈍いことは最悪と思っていたけれど、敏感すぎて自分を苦しめるのも最悪でした、またひとつかしこくなった  

  すくなくともいま 手にしているように見えるものや  周りの人たちを ほんとうに大切にしたいとおもう  いろいろ考える分のキャパシティを彼らに好意を表明するのに使いたい  ごきげんに過ごします

 

おわりです!

 

4月30日の日記

 

        もうとっくに日付が2回ほどまわってしまったんですけど、今日はこっちに日記を書いてから寝ようと思います。(って書いてるうちに寝てしまって昼です)

 

        昨日ははひとことで言うと「怒涛」という感じのいちにちで、物理的にも縦横無尽に動き回ったし精神的にも、浮き沈みというよりはずっと震えていて、その震え幅がどんどんかわっていくという感じだった。

 

        わたしはいま3バンドをかけもちしていて、同じような時期に組んで同じような時期にライブがあり、今日はその1バンド目のライブだった。(わたしの担当はベースです  低い音)

        2バンド目のライブは今日あり、3バンド目のバンド練習は昨日の夜と今日の夕方にある。もう完全にあたまがぐちゃぐちゃ  ヒーーー  (あたまがぐちゃぐちゃながらなんとかうまくやっているな…とほっとした矢先アルバイトの存在を完全に忘れて電話で叱られるというのをやってしまった キャパオーバー)

 

        昨日は夜の11時から朝の3時まで寝て ベースを練習してお風呂に入って、家庭教師に行った。だいぶ前にその家庭教師先まで自転車に乗るはなしを書いたと思うのですが、なんと自転車の鍵を紛失したので往復40分歩きでした。

        家庭教師  お給料はめちゃくちゃいいけど移動の時間を考えるとそんなでもないなと思ったりする。

 

        家庭教師が終わったらそこから2時間かけてライブに出演するために大学へ向かう。BUMP OF CHICKENのコピーをやりました。ファンしか知らんやろ…!という選曲を新歓も兼ねた学園祭でやるという企画。逆にファンなら身悶えしてしまうような選曲だった。ワハハ。

        しかし半月でやるアレではない、どちゃくそに難しい、3ヶ月ぐらいかけてみっちりしっかりやりたかったな… ミスしないぞ!と思った箇所はミスしなかったけど、こんなところ間違えるはずないだろうというところをめちゃくちゃ間違えてしまった。久々にすごく緊張した、ビデオが撮影されていてのちのちYouTubeに上がることを考えると憂鬱。ウワーンみないで

 

        そのライブ後には別のバンドの練習があったけど4時間ほど暇があったので近くのスタジオで個人練をすることにした。大学を出るときに ボーカルのひとが「ありがとう」て言ってくれたのがうれしかった。

        わたしはその人に誘われてそのバンドに入ったので、たぶん 「組んでくれてありがとう」 ということなのだろうけど、こちらこそとしか言いようがないぐらいこちらこそだし、わたしは彼のプライドのないリップサービスやいじっていい判定した人に対するいじりや、そういうなんというか 「うまいことやってます」みたいなのを普段あんまり好ましく思っていなくて、そして、みんなから好かれている彼に好ましくない部分を見出していることに勝手に負い目を感じていたけれど、でもそうやって言うべきときに言わないとダメな大切な一言をちゃんと本人に伝えられるところがこの人の憎めないところだよな〜〜と思った。この話を父にすると「好ましくない人間の美徳を美徳として受け取れるのだからおまえはまだ大丈夫」と言われて、彼もまた目の前のたった1人のための言葉を持つ人だよなぁと思った。

 

        帰り道に駅で電車を待っていると、わたしのサークルに入ることをすでに決めたという女の子2人が「さっきみてました、かっこよかったです…!」と声をかけてきてくれてウワーーー!!となった、でも演奏に関しては「本当はもっとうまいんですけどちょっと他の方が立て込んでいて…!」と言い訳したくなって、だめだナァ。高3で部活を引退して 大学に入って1年間いちばん下っ端をやってみた結果、後輩ってこんなに可愛かったっけ?!!?!という気持ちになりました。

 

        電車の中では友達に真人間チャレンジの解説をした。

        わたしはけっこういろんなことを深く考えてしまう性質で、そしてそれが悪いこととも思っていないけれど、それをばかにされたり茶化されたりネタにされたりすることが本当に苦手で、いつもそのへんに対してすごく警戒しているので(そして前述のボーカルの男の子は躊躇なくばかにしたり茶化したりネタにしたりする。 なぜならわたしは"いじっていい"判定をされているので) 今日一緒に帰った友達が興味深く受け入れてくれて「エッセイ書きなよ!」とかなんかさまざま言ってくれて、わたしの話を最後までちゃんと聞いてくれて、話が通じて、  すごくうれしかった。ワイワイワイ  

 

        「わたしの話を最後までちゃんと聞いてくれて話が通じて(一旦でも)受け入れてくれる」、つまり 真面目な話をできる友達というのは本当にめちゃくちゃまじでびっくりするほど貴重だと思っているので大切にしたい。未だ嘗てわたしが出会えているのは2人だけで、でも、これはたぶんめちゃくちゃ多い方なんだろう。

        一生つきあってゆきたい人たちだな、そういうひとたちがいるからあんまり浅く広く自分からグイグイ友達作りに行く、みたいなのを大学に入ってからあんまりやらなかったしできなかったし、やらなかったから友達が完全にゼロ!!と思っていたけど そんなことはなかった、よかった。

 

        個人練までも1時間くらいあったので(時間の使い方がヘタ) ドトールコーヒーに行ってチーズのなんかすごいやつを食べた。このドトールコーヒーは高校3年生の10月の模試の帰りに友達と寄って、その模試の自己採点をして絶望しあった思い出のドトールコーヒーだったのですが、2人ともちゃんと大学に受かって、大学に入ってからもそこそこうまくやっていることを考えるとかなり感慨深い気分になった。

        彼女は高3のときに出席番号的に席がわたしのひとつ前で、国公立大学受験にあたって自分が集めた情報を基にして練りに練った戦略をわたしにみっちり叩き込んでくれた人で、わたしが合格したときには泣きながら電話をかけてくれた人で、じゃあわたしはひとつ後ろの席の不登校気味のおちゃらけた女子に自分が集めた情報と戦略を与えてその子の合格を泣くほど心から喜べるかというと、全然そんなことできる気はしなくて、なんというか すごいなあ と思った。世の中にはすごいひとがたくさんいますね。  

        すごいといえばドトールコーヒーでわたしの隣の席のカップルが「印象に残った 世にも奇妙な物語 のエピソードを紹介し合う」というのをやっていて思わず夢中で聞いてしまった。話がうまくなりたい。

 

        個人練が終わったらまた電車に乗ってバンド練習のスタジオへむかった。そのスタジオの最寄駅はかなりいかがわしくて 昭和のままの(昭和を全然知りませんが…)ネオンサインや看板がめちゃくちゃ面白かった。先輩がこの前出演したライブに 「高校の人も大学の人も専門学校の人も職場の人も来てくれて生前葬みたいだった」という話をしていておもしろかった。

 

        練習が終わったらご飯を食べましょうとなって、宮本むなしに行った。ネーミングからもうちょっとふざけた居酒屋かと思ってたけどめちゃくちゃ清潔な定食屋さんでウケてしまった。先輩とジャンケンをして、多分負けてくれたんだろうけどわたしが勝って、晩ご飯をご馳走になった、なるはずだった、だけど先輩は自分の食券を買うとすぐに席に戻ってしまって、普通にわたしが自分のぶんを買って席に戻って、わたしの注文したものが届いたタイミングで  アッ!!! となっていた。現金を支給されておもしろかったです、期せずしてあからさまな奢りかた…!

 

        その先輩は わたしのTwitterを好きと言ってくれて(わたしの周りにはわたしのTwitterを好きと思ってくれる人と 気持ち悪いと思っている人がいると思う)、あとはなんというか自他の区別がつきまくっているというか思慮深くてすごかった。「個人の自由だけど」という前置き。食べ方が致命的に汚いところも情緒があったな、 しらんけど。

 

        最近コミュニケーション能力の調子が良いのでうれしい  まあ後輩と話せたことも先輩と話せたこともわたしが偉いというよりは彼らのおかげでしかないんですけど、特に後輩はあそこで声をかけられるのすごいよな〜 わたしなら知らんぷりしてしまうな〜〜  と思った、何度も言うようですが世の中にはすごいひとがたくさんいる。

 

        わたしはほぼ日みたいな手帳に日記をつけており、1日1ページで足りるかい!ということが多い、なぜなら遺書みたいにその日あった出来事や思ったことを全部記録しておかないと気が済まないので。しかし3900字はなかなかすごいですね、楽しかったです。

 

        5月5日までは怒涛の日々が続くでしょう、そろそろ髪の毛を染め直したい!  おわりです

 

 

 

 

真人間チャレンジ

 

4月が終わりかけです。みなさんいかがおすごしですか。わたしはくたびれはてています。

くたびれるといえばわたしは今年から初級フランス語の講義をとりはじめたのですが、その先生がひょろっと背が高くて 鼻がシュッとしていて 伏し目がちで  お手本の発音を生徒に披露するのをめちゃくちゃ照れているはにかみ屋さんで  日本語のサ行とタ行の発音がすてきで  留学先の訛りに愛着を持っていて  一生懸命言葉を選びつつ最終的にはぶっきらぼう  という男性で、くたびれた顔をしていて、まあ、とにかく、大好きなんですよね。ほんとうに好き、早くこんな人になりたい。

まあそれはいいとして。

わたしはとにかくめちゃくちゃくたびれはてている。たぶん。

たぶんというのは、1日のうちの6時間ぐらいをずっと原因不明の悲しみに支配されてぜんぜん体に力が入らない、ずっと酸欠、動くのがどうしても億劫、という最近のわたしの状態に対して「どうやら疲れているらしい、それもかなり」  という見当をつけたということなんですけど、この感覚はぜんぜん初めてなことじゃない。高校生の時から、そして大学に入っても何度もあることで、まあ病院に行ったほうがいいんだろうなあということはうすうす感じつつ「ほんとにみんなはそんなことないの?!??!ほんとに?!?」という感じ。

そもそも病院を調べるにしても実際に行くにしてもぜんぜん時間を作れなくて、この波が過ぎ去るのをとにかく耐えるというのを繰り返して今までやってきたのですが、その中でわたしが編み出したというか、勝手に開催することを決めたなんというかそういうアレが 真人間チャレンジです。

 

悲しくてもしんどくてもだるくても学校には行かないといけない、それは単位のためでもあるし、自分のためでもある。

今日しんどいので今日休む、だけど罪悪感がある、のちの自分が休めなくなって余計に追い詰められてしまう。

そういうのがめちゃくちゃ嫌で、ほんとうにしんどくて、どうしようもなくて、その辺がうまく行かなくて留年しかけたのが高校生の頃なんですけど、だから、ルールを決めました。

 

1. やけっぱちにならない

2. 休むなら楽しく休む

3. 引き分けを狙って最後には勝つ

 

まず 「やけっぱちにならない」というのは、楽しく休めるのかどうか、お昼からなら動けるのかどうか、のちのちの自分のためにどうか、ということをよく考えるということです。 ヨッシャ全休やもうしらん!大学なんか辞めてやる!!!をやらないということですね。

経験上 動き出したら元気になる日もあるし 動き出しても完全にダメという日もあるのでそのへんをちゃんと考えます。駅まで歩いてみて無理だったらアイスクリーム買って食べながら帰ろう、とか。

 

「楽しく休む」というのは、罪悪感で余計にしんどくなるぐらいなら這ってでも学校に行ったほうが「これだけしんどいけど学校には行ったので1勝1敗…」という慰めがあるからです。

楽しく休んだら、休んだけど楽しかった→楽しかったら回復するので1勝1敗、楽しく休めなかったら休んだし楽しくもない→回復しないので0勝2敗です。負け。

 

「引き分けを狙って最後には勝つ」というのは、楽しく休むぞ、という気持ちとやけっぱちにならない慎重さをもってどうにか重ねた引き分けを、最後にはプラスにしてちゃんと勝っていきましょう ということで、楽しく休めたならきっと次の日は頑張れるし、次の日は無理でも次の週は頑張れるかもしれない、そういうのを積み重ねて、1番頑張らないとダメな時にちゃんと頑張れるようにするということです。

 

つまり、なんというか、真人間チャレンジっていうのは負けを許すということで、全勝しなくていい、でも全敗はまずい、なんとか引き分けにもっていきましょう、ちょっと先の自分がいちばんご機嫌になれる選択をしようというやつです。

それは、自分が人並みのことを当たり前にできないことを認めることでもあるのでけっこう落ち込んだりもするのですが、「アッ 自分 いま がんばりすぎてるぞ!頑張っている場合ではない!」ということに気づいてどうにかするというのはわたしにとってはけっこう大切なことだと思っています。とはいえそろそろちゃんと病院に行ったほうがいい気もする。5月になったら考えます。ウウウウウ

 

おわりです!

 

 

 

携帯電話を忘れたはなし

 

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ということで、携帯電話を忘れたので紙ブログを試みたものの 字数!!!これはぜったいにむりなやつ!!となってここまでしか書いてなかったのですが、いわゆる平日(旅行中・海外とかでなく 学校やアルバイトなどの社会的な場に参加する予定がある日)を携帯電話不携帯で過ごしてみたというアレです。これがけっこうおもしろくて、まず 携帯電話がなくて困ったことを挙げてみると

 

  1. 連絡がとれない
  2. 時間がわからない
  3. 暇つぶしの道具がない
  4. 調べ物ができない
  5. 記録をとれない・記録してあるものを取り出せない

 

という感じでした。

 

1.  連絡がとれない

まあこれは今回に限ったことでいうと 困ったけれどもそこまで困らなかったというか、連絡を取る必要のある人がそもそもそんなにいなかったというのがあります。  わたしに有事の際の最低限の重要参考人の電話番号は暗記しているので いざというときには友人に電話を借りたり公衆電話を借りることができるという安心感がおおきかったのかな  学校に向かっているというのも心強かった  学校はいわばパブリックなホームなので

でもまあ 冒頭の文の通り 公衆電話がみつからず 電話も借りられずひとりで投げ出されたような状況のときはほんとうにどうしていいかわからなかった  なかば泣きそうでした  携帯電話を忘れたぐらいで泣きそうな自分にびっくりした

 

2.時間がわからない

これもね、まあ時計を持ち歩きなよ という話ですよね   駅や大学の正門のの時計のありがたさに気づきました  時間に余裕があることはわかっていたので不便ではありましたが致命傷ではなかったです

 

3.  暇つぶしの道具がない

これはつまり 音楽を聴く手段がない  ということなんですが、けっこうきつかったな  もちろん音楽が好きだから音楽を聴いているのですが、雑音を聞きたくないから音楽を聴いているいう側面が 自分にとってはわりあい大きかったのだな、と気づきました。 電車での笑い声とか赤ちゃんの泣き声とか  休み時間の喧騒とか  そういうのを聞きたくないから音楽で耳に栓をする。 音楽のない1日はけっこうストレスフルでした。

「暇つぶし」という意味では  通学時間が往復で4時間と長いのでもっと困るかな〜〜 と思っていたのですが、携帯電話があったらあったでtwitterや各種SNSをみたりパズルゲームをやってしまうけど なかったらなかったで読書や単語の試験勉強なんかが捗っておもしろかったです。本を持っていたわたしはほんとうにエライ! あとめちゃくちゃ寝た。

 

4.  調べ物ができない

これは困りました  バスの時間にせよロシア語の単語の意味にせよ  知りたい!と思った時に調べられないというのがこんなに不便なのか!  という感じ  そして  知りたい! と思ったこともちゃんと覚えておこうと思って覚えておかないと忘れてしまう  いつのまにか堪え性のない身体・脳みそにされてしまっていた…

 

5.  記録をとれない・記録してあるものを取り出せない

まず、記録してあるものを取り出せない というところからいくと、これはたとえば時間割だったり その講義がどの教室で開講されているかだったりするのですが、自分が毎日触れる・必要とする情報のかなりの部分を携帯電話に頼ってしまっていたのだなあと気づきました。「携帯電話は毎日持ち歩くものであり、そこに記録したことは忘れてしまって構わない なぜならいつでも取り出せるので」という感覚がいつのまにか染み付いてしまっていた  

これが特別悪いことだとも思わないのですが、これが進行すると  携帯電話がじぶんの脳みその外付けハードディスクみたいな感じになってしまって  本体にはあんまりなにも残らなくなってしまうのではないか みたいな危機感はたしかにわたしの背筋を凍らせました。

ちょっと違う話でいくと  わたしには日記をつける習慣があるのですが、「日記に書いてしまえばもう安心、これでこの日のできごとや感覚を忘れることはない」という感覚はとても身に覚えのあるもので、でも記録したことに満足して忘却を許してしまえば  日記帳が失われたときにわたしにはなにも残らないのでは   ということで、それはつまり 自分の頭と心でしっかり覚えておくというのはすごく大事なことなのかもしれない、ということです。さまざまを思い出す手がかりとして言葉を尽くして日記やブログを書くというのはめちゃくちゃ有意義だと思うので続けていきたいけれど  じぶんの頭や心にまず焼きつける  という作業を怠ってはいけないな と思いました。ちょっと大仰になってしまったけれど、そんな感じです。

あと 記録がとれない  というのは たとえば きれいに咲いていた木瓜の花を写真に収められなかったというのがかなり悔しい とか そういうことで、これは一言でいうと忘れてしまう不安というか、先述した通り 写真に残しておけば安心、みたいな手段がないのが思いのほか心細かったです。

 

 

ということで、半日携帯電話不携帯で過ごしてみた結果  わたしにとって携帯電話とは  みたいなものがけっこうみえたような気がします。

わたしにとって携帯電話は、なにかを忘れてしまわないためのお守りであり、ストレスフルな雑音から守ってくれる音楽機器であり いつでも調べ物ができてなんと連絡も取ることができるクリームチークによく似た四角さ・重さのちいさな箱    みたいな感じ

 

電話  というよりは記録の媒体で、そしていざというときにはこれさえあれば割となんでもできる という心強さを持ち運べる。なんてべんり!

「携帯電話、もうにどと、わすれないぞ……!」と めちゃくちゃ反省しました  

まあでもけっこうかなりおもしろかったので 取り返しのつく日に携帯電話を忘れるやつ  ぜひやってみてください。

 

おわりです!